冒頭サンプル章読み


 

インスタント・ニルヴァーナ 上巻

 

▶冒頭サンプル章読み

 

▶Kindle無料サンプル

 

インスタント・ニルヴァーナ 中巻

 

▶冒頭サンプル章読み

 

▶Kindle無料サンプル



 

 

インスタント・ニルヴァーナ

 下巻

 

マックあつこ

 

 

 

▶Kindle無料サンプル


目次

 

(1)スパイ

(2)元カルト信者の後遺症

(3)AINウルトラの発動

(4)POLヒーリング・ヘブン

(5)決断

(6)裏切り

(7)罠

(8)反撃

(9)教祖集結

(10)陰謀

(11)決断

(12)再出発

(エピローグ)

後書き

参考文献 (著者50音順)

著者紹介

 



(1)

スパイ

 

 びゅうびゅう、北風が耳元で唸る。パン屋の角を狭い路地へと折れた。どんよりと低く垂れ込めた空を背に、2階建てのみすぼらしいアパートが現れる。剥げかけた肌色のペンキ、蛇のような亀裂、錆びかけた小窓の鉄柱。痩せた裸木が1本、ブロック塀にしがみつくようにして北風に身を縮ませている。

目の前の風景に春日南は違和感を覚えていた。こんな外観だっただろうか? 吐きたいほどに陰鬱な風景だ。

「大丈夫?」と、傍らで桜久美子が呟いた。

「やっぱり春日さん、帰りましょう」

 足元を菓子パンの袋が渦を巻きながら風に吹き飛ばされてゆく。外階段の錆びた鉄柱に自転車が1台、チェーンで繋がれていた。これに乗ってコンタクトに、そしてガイアイ販売に毎日通ったのだった。とたんに込み上げた吐気を呑み込み、錆びた階段に足を掛けた。

「行く気?」

心配そうな桜の声に、南は振り返らずに頷いた。

「じゃあ、私はここで待ってるから。携帯に私の番号も入れておいたからね。何かあったら絶対に電話して」

 一段上がるごとに建物が軋むせいか、胃の腑が縮み上がるような気がする。

戻りたくない! 脅える気持ちを振り払い、中程から一息に駆け上がった。

〈201号室〉。ベニヤの剥げかけたドアの前で立ち止まる。

扉の向こうはニルヴァーナの世界。これを開けたが最後、その日常に再び捕らえられてしまう。そんな気がして鍵を持つ手が震えてしまう。大丈夫、そんなことはあり得ないからと自分に言い聞かせ、意を決してドアを開けた。

 部屋は、だけどひっそりと出たときのまま。いつもと変わらない見慣れた空間を横たえていた。思わず肩の力が抜けてゆく。ダイニングテーブルの上には沙紀のパソコン。その脇にアカーシャのマンダラと大河光の写真が銀の写真立てに飾られている。小さな流しには空になったアルカヘストのボトルが転がっていた。

自分は、何を脅えていたのだろう? 皆は何を心配していたのか? 

とにかく、ぐずぐずしている時間などなかった。沙紀が戻る前に証拠を、HHCを内部崩壊に追い込めるような何かを見つけ出さなければ…。

 早速、沙紀のコンピュータを立ち上げる。アカーシャのマンダラと大河光の写真立ては、監視されているようで落ち着かないので伏せてしまった。

パスワード入力で早くも戸惑った。南が使っていたパソコンはキャンセルしても稼動するのだが、これは正しいパスワードを入力するまで頑として先に進もうとしないのだ。

Nirvana、saki、aoi、hhc、ain、mesia、hikaru、2007…。思いつくままキーを叩いた。けれど入れる傍から撥ね付けられてしまう。半ばやけくそ、出鱈目にボードを打ち捲るうち、薄い壁の向こうから誰かの足音がした。

 沙紀! 

咄嗟にパソコンの電源を落とし襖の陰に隠れた。息を殺し玄関を見詰め、ドアが開いたとき怪しまれないような、さりげない第一声を探す。お帰り、ニルヴァーナ、久しぶり。バクバク、心臓が高鳴る。外廊下が軋み、けれど足音はそのまま通り過ぎて行く。

 バカみたい。何やってんだろう。自分でもさすがに情けなかった。

とにかく一刻も早く証拠を探さなければ。でもどうやって? 沙紀のパスワードさえわからないのに?

 いつか沙紀が見せてくれたパスワード・スニファーを思い出した。あのCD―ROMを沙紀はどこに置いていただろう?

 押入れを開け、CDやMDやフロッピーディスクが詰った沙紀のカラーボックスを引っ掻き回した。けれどディスクは無記名か、暗号のような数字とアルファベット文字が並ぶばかりでタイトルがない。今度こそ本当に途方に暮れてしまった。

所詮ムリなのだ。コンピュータスキルの〈ス〉もない自分がニルヴァーナの秘密情報を掴み出すなど…。諦めて、今は引き上げるべきなのだ。桜や久藤と一緒に解決策を探るべきなのだ。

そう頭では考えているのだけれど、手はいつまでもぐずぐずと探すことを止めなかった。もしかしたらここに何か隠されているかもしれない。企画書か、明細書か、連絡事項か、証拠になるような書類が何か…。藁にも縋る思いと切羽詰った願望だけで一心不乱にボックスの中をひっ掻き回した。

「あれっ、おねえちゃん、帰ってたの!?」

 不意を突かれ、ボックスごとひっくり返してしまった。

「大丈夫? 良かった、心配したんだよ。あたし実家まで電話したんだからね」と沙紀はにこやかに話しかけてきたが、ふいに顔を顰める。

「それ、あたしのおニューのレコーダ。え、ディスクもこんな…。おねえちゃん、あたしの棚で何してんの?」

 動揺を悟られないよう、片付ける振りをしながら言い訳を探した。

「その…ちょっと気分悪くなっちゃって、薬、そう薬探してたの」

「ヤブ医者、薬くんなかったの?」

「貰ったんだけど、薬に頼るのって良くないから実家において来ちゃって。でももう大丈夫。久しぶりに電車乗って、疲れたのね」

「治ったならいいけど…」

沙紀は肩を竦め、メタリックのボディも新しそうなICレコーダを拾い上げた。擦り切れた畳の上に散乱したディスクを手早く片付け始める。

 怪しまれてしまっただろうか?

「でもあんまムリしない方がいいよ。過労だったんでしょ」

けれど沙紀は無邪気にそう言うと、押入れを開け、南の布団を敷き始める。

「今日は、ゆっくり休みなよ」

ともかく沙紀が敷いてくれた布団に潜り込んだ。アパートの外で北風に震えながら待っているのであろう桜のことが頭を過ったが、仕方ない。

それにしても、どうして沙紀はこんな時間に戻って来たのだろうか? 午後4時、いつもなら未だ仕事をしている時間帯なのに。

布団に横になって、時計の音に耳を傾けていたら益々不安が募ってきた。自分が、救出カウンセリングを受けたことを、既にニルヴァーナを抜けると決めたことを、沙紀に気づかれはしないだろうか?

「ああ、おねえちゃん。今夜はあたしがTE作ったげるからね。おうどんでいいかな?」

「えっ、夕食! いいわよ、そんな。沙紀こそ早く寝た方がいいよ」

「病人は余計な気を遣わないの」

 俄に台所が騒がしくなった。ジャージャー野菜か何かを洗う音、トントン包丁と俎板が擦れる音、グツグツ鍋の噴き上げる音。料理などロクにしない沙紀が南の体を気遣い台所に立っていた。

自分は、スパイをしに戻って来たというのに。沙紀は何も知らないのだ。自分の企みも、ニルヴァーナの欺瞞も。

「葵さんは、葵山グループのお嬢さんなの」と、桜が言っていた。

「私たちはどうしても彼女を押さえたいと思っていた。彼女に関しては通常以上の調査をしたわ。父親は母親の再婚相手で、家庭環境が複雑だったから、それを利用することにしたの。コンタクトのセラピーで、彼女が父親を毛嫌いしていることもわかっていたし」

「だから沙紀は義理の父親から受けた性的虐待を思い出したとでも言いたいの! 人の記憶を他人が捏造できるわけがないじゃない」

思わず南は声を荒げたが、久藤が畳みかけるように言った。

「退行催眠で思い出す記憶が、必ずしも事実だとは限らないんだ。思い出した記憶の大半が事実であったとしても、部分的に違うことも多い。例えば幼いころに家庭教師から受けた性的虐待を、大人になって父親から受けた虐待として歪んだ形で思い出すこともある。心理療法家はそれを〈偽りの記憶症候群〉と呼んでいる」

「沙紀の記憶が偽物だって言いたいの?」

「たとえば、これは十年程前アメリカで実際に起こった訴訟だが、退行催眠中に子供のころ実の父親から受けた性的虐待を<思い出した>女性が、父親を訴えた。父親は初め無実を主張していたが、裁判が進むうちその〈事実〉を認めて有罪になった。しかし後でそんな事実はなかったことが判明したんだ。今度は精神科医の方が偽の記憶を誘導したとして訴えられたよ」

「でも沙紀の場合は…」

「催眠意識下では無意識に催眠家の暗示に答えようとする気持ちが働く。ラポール現象と呼ばれるものだ。訴えられたセラピストは故意に誘導したわけじゃないだろう。暗示をかける際の注意が足りなかったんだと思う。けれどニルヴァーナは予め計画を立てて誘導した。葵さんの場合が偽りの記憶症候群である可能性は、極めて高いと思う」

「人の記憶なんて、案外いい加減なものなのよ」と、桜。

「記憶を変えれば、自然人格も変わってくる。記憶自体を擦り替えてしまうことは難しくとも、歪めたり、意味を変えてしまうことは、そう難しいことじゃないんだよ」と久藤が付け加えた。

 記憶―

実家を出る直前に南は、妹が事故に遭ったときのことを両親に尋ねてみたが、二人とも自分がその瞬間に居合わせたかどうかはわからないようだった。ただ両親の話では、愛美が車に撥ねられたその夜、二人が家に戻ると、南が一人、気が触れてしまったかのように震えていたそうだ。その話にAZΩThで思い出した記憶は事実だったのだろうと思った。

だからと言って、愛美は自分をニルヴァーナに導くために逝ったのだなどと言おうものなら、両親は憤死し兼ねないのだけれど。思えば、身の毛も弥立つほど手前勝手な意味の彎曲だ。あのときどうして自分はそんな帰結に走ったのだろうか? 考えると自分で自分が恐くなってくる。

救出カウンセリングをしながら何度も久藤は言っていた。「南さん、ニルヴァーナがメンバーに何をしているのか、じっくりと考えてみてほしい」と。

「沙紀!」思わず掛け布団を撥ね退けていた。

「何、起きた? ちょうどできたとこだよ」

 沙紀が湯気の立つ丼を二つ盆に載せ運んで来る。無邪気な笑顔に、南は喉元まで出掛かった言葉を失ってしまった。のろのろと起き出して、布団を畳み、炬燵を広げるスペースを開ける。沙紀が嬉々として食卓の用意を整えてゆく。

なんと説明すれば彼女にわかってもらえるだろうか?

「味の方は保証できないけど絶対元気出るよ。ガイアイ食品使ったんだから。なんか久しぶりだね、おねえちゃんと一緒にTEするの。ニルヴァーナ」

 ガイアイ食品と聞いただけで、吐き気がした。それでも沙紀に嘘をついているという後ろめたさから無理矢理に詰め込んだ。

沙紀の大きな瞳の下に隈が浮いているのに気がついた。久しぶりに会ったせいだろうか、美しい顔も思いのほかやつれて見えた。

「沙紀は、相変わらず忙しいの?」

「まあね。徹夜も多いよ。でも1秒だって無駄にできないもんね」

「ミッションHHCも遂に発令されたものね」と、さり気なく探りを入れた。

「あ、おねえちゃん、倒れてたから知らないんだ。もうHHCじゃないんだよ、信教の自由を守る会に名称に変わったの。12月12日に第1回教祖大会が開かれることになって」

「12日って、三日後じゃないの!」

「だからもうその準備で大忙し。8人もの教祖をクリスタルピラミッドに迎えるんだから、ほんと前代未聞でしょ」

「AINが、いよいよ始まるってこと?」

「HHC特別企画室もAIN特別企画室に変わったんだよ。コンタクトの林田幹部も加わってくれたけど、ほとんどもうパニックで」

 やはり。カルトSOSを訴えたのは、信教の自由を守る会の教団だった。三日後の教祖大会、AIN特別企画室。久藤と桜に一刻も早く知らせなければ…。自分に何ができるだろうか?

「ねえ、その教祖大会って」と南が身を乗り出したのと、

「実はあたし」と沙紀が声を上擦らせたのはほぼ同時だった。

「ごめん。何、沙紀から言って」

促すと、沙紀はぽっと頬を染めた。そして打ち明け始めた。あろうことか、メサィアとの情事を―

「あたしたち、今世でもまた恋人に戻った…」

 うっとりと桃色の溜息を漏らし視線を宙に漂わせた沙紀を、南は呆然と見詰めてしまった。信じられなかった。恋する女のエクスタシーに揺れる潤んだ瞳。背筋を悪寒が駆け上がる。

 ねえ沙紀、あの男が、自分たちに何をしたか知っているの! 

叫び出しそうだった。騙されてるの、操られてるの、利用されているのよ、と彼女の肩を掴んで揺さぶりたかった。あいつは救世主なんかじゃない、詐欺師、ペテン師、犯罪者、最低の人間なの、と例え沙紀が信じなくても、洗いざらいぶちまけたい衝動に駆られる。

「どうしたの、なんで泣いてるの?」

 沙紀に聞かれてハッとした。

「気持ち、悪い? 薬、買ってこようか?」

 その手を掴み尋ねる。

「沙紀、幸せなの?」

「ニルヴァーナ」

沙紀は心底、幸福そうに頷いた。

久藤が言っていた。「大河光やニルヴァーナの欺瞞を打ち明けても、葵さんは聞く耳、持たないだろう。マインドコントロールは、君が思う以上に強力なんだ」と。

 たぶん久藤は正しい。例えここで南が話しても沙紀は信じないだろう。プロの療法家の手で救出カウンセリングを受けた自分でさえ、最後の最後までニルヴァーナの方を、メサィアの言葉を信じようとしていたのだ。そのうえ沙紀は大河に恋をしている。

 大河光―

突然、突き上げた激しい怒りに胃の腑が捩れ上がる。自分でも信じられないほど凄まじい憎悪だった。全身が火照り、ぶるぶる震えがきた。生まれて初めて誰かを殺してやりたいほど憎いと思う。

「おねえちゃん、あたしそろそろ企画室に戻らなきゃ。メサィアと森脇幹部に呼ばれてるの」

「企画室に? ねえ、私も、私も行く。一緒に連れて行って」

 言うや否や南は沙紀と一緒に立ち上がっていた。沙紀が呆気に取られたように大きな瞳を見開いたが、南自身そう言った自分に驚いていた。それでも説得するように訴えかける。

「私、実家で休養しながらずっと考えていたの。自分も何かHHCに貢献したくて、コズミックソウルに祈っていたの。やっとその方法が見つかったのよ。お願い、沙紀。メサィアか、それが無理なら森脇幹部に会わせて」

 沙紀は明らかに困惑した顔でじっと天井を見詰めていたが、頷いた。

「森脇幹部もおねえちゃんに何か話があるようだったから、大丈夫かもしれない」と。

 

* * *

 

 沙紀と並んでアパートを出た。風は幾分弱まっていたが、既に日は暮れかけていた。

沙紀に気付かれないよう南は視線だけを動かして桜久美子の姿を探した。角のブロック塀に隠れて、桜が顔を覗かせていた。今にも飛びかかってきそうな形相に、慌てて南は右手を耳元に当て、後で電話をすると合図を送る。桜があんぐりと口を開け、呆れ果てたと言うように大きく頭を振ってみせた。心配しないでと伝えるつもりで前を見たまま後ろ手でVサインを投げた。

 駒沢通りに出ると、沙紀は当然のように片手を上げ空車のタクシーを止めた。彼女に続いて乗り込みながら、ニルヴァーナに入信して以来タクシーになど乗ったこともなかったと気づく。たぶん今、沙紀は幹部クラスの待遇を受けているのだろう。

 タクシーの中で沙紀は大河光のことばかりを話していた。のろけ話をする女子の華やいだ明るさで、救世主を称える信者の妄信的一途さで。

南は適当に相槌を打ちながら、AIN特別企画室に潜り込む方法を思案していた。貢献の方法に気付いただなんて、咄嗟の出任せだった。どうすればミッションLSの失点を挽回して、特別企画室のメンバーに加わることができるだろうか? 大河光や森脇徹に春日南という人材が必要だと思わせるには…? 

沙紀には特殊技能がある。MITを目指すほどの頭脳が、ハッキングするほどのコンピュータスキルが。けれど自分にどんな人より秀でた能力があるというのか? セラピストの資格が幻想であったと知った今、春日南という人物には資格一つ、技能一つないのだから。自分にできることといえば雑誌を作るくらいのことしか思い浮かばない。雑誌作りだけ…。

 ふいに、アイディアが閃いた。既に車は246に入っていた。

 沙紀に続いてタクシーから降りる。ピラミッドビルの前に立つや足元で地面がぐらりと揺れた気がした。沙紀に背中を押されなかったらそのままUターンして逃げ帰っていただろう。

ホールで数人が立ち話をしていた。ユニフォームを着ているわけでもないのに、一目でニルヴァーナのメンバーだとわかった。エレベータを待つ間、誰とも視線を合わせないように俯いて、どんどん速くなる自分の心臓の音を数えていた。ドクッ、ドクッ、ドクドクッ…。チャイムとともにドアが開き、グレーのスーツを着た女性が飛び出してくる。

「ニルヴァーナ」と擦れ違いざま沙紀に目礼したその女性が一瞬ガイアイ販売の宮本愛子に見えた。心臓が喉元までジャンプした。

 エレベータに乗り込むや狭い密室に益々息苦しさを覚えた。他に誰も乗らなかったのが救いだ。①、②、③と、通過フロアを示すランプが一つ上がるたび心臓がバクバク益々高鳴ってくる。

ガイアイ販売のある⑩のランプから目が離せなかった。宮本愛子の白塗り顔、立野久代のお多福顔、冷たい汗で脇の下がじっとりと濡れた。朝のミーティング、車座、エレクサのボトル。悪夢の記憶は振り払い、今は何も思い出すなと自分に言い聞かせた。両手で拳を握り締め、両足を踏ん張っていた。幸運にもエレベータは10階を素通りして12階へ。踊り場へ出たときには全身が冷や汗でぐっしょりと濡れていた。

 まずメサィアの了解を得てくると、沙紀はカードキーを取り出し一人中に入ってゆく。南はガラスの扉越しに沙紀を見送るや、その場に蹲ってしまいそうになる。混乱と恐怖のあまり今にも挫けそうな心を整理して、ここにいる目的を確かめた。自分は、カルトSOSを潰そうと企むニルヴァーナやカルト教団の野望を阻止するために、AIN内部に潜り込もうとしているのだ。だけど、もしも失敗したら…?

両親や桜、久藤の顔を思い浮かべた。大丈夫だ、失敗したと気付いた時点で逃げ出せばいい。そう、いつだって逃げ出すことはできるのだから。自分に言い聞かせ、何度も何度も呟いていた。

「大丈夫だって。会ってくれるって」と戻って来た沙紀が頷く。

 12階の扉がまた開いたのだった。沙紀の後に続き南はおどろおどろしくも豪華なホールへと2度目の足を踏み入れた。1番手前のドアが開いた。

「ニルヴァーナ」

 沙紀と一緒に南も胸の前で〈宇宙の印〉を組み、深深と頭を下げた。ドク、ドク、ドクドクッ…。心臓が一層激しく騒ぎ出す。それでもそこが『週刊NOW』のスキャンダル記事で悪夢の宣告を受けたあの部屋ではなく、最初に訪れたミッションLSの広報に昇進したときの部屋であることに気付いて、幾分緊張が解れた。

恐る恐る顔を上げれば、薄暗く芝居がかった空間の、長テーブルの向こう側で、黒に身を包んだ大河光がふんぞり返っていた。その頭上でアカーシャのマンダラが揺れている。森脇徹が目元で笑った。

「お帰りなさい、ニルヴァーナに」

 なんと答えて良いかわからずに「ニルヴァーナ」と印を組んで応えた。沙紀に続いて、窓際の席に腰を下ろす。

「春日南、何か私に話があるそうですね。森脇から過労で倒れたと聞いたが、HC革命のためといえ無理はいけませんよ。他者を慈しむがごとく、自身の体と心と魂も慈しみたいものです」

 救世主ぶった慈悲深そうな声。見上げれば、大河は静かに微笑んでいる。その白々しい微笑に唾を吐きかけてやりたくなる。以前この男がしたように。

それでも両親や久藤や桜のことを思い、自分を取り戻した。静かにその眼を見据えることさえできた。

「ニルヴァーナ。お心遣い、感謝します。自己健康管理が至らず、肝心なときにご迷惑をお掛けして誠に申し訳なく」

視界の端で森脇が怪訝そうに顔を歪めたのに気がついて口篭る。口調が、普通過ぎたのだろうか? 以前の自分ならどんなふうに話しただろう…。

「ですがこうして回復できた今、自分の弱い心が吐き出されて魂が浄化され、もう1度リボーンできたような気がしています。今またメサィアの下、ソウルメイトとともに魂のレベルで生きる。宇宙真理を実践できる喜びで胸がいっぱいです」ニルヴァーナ用語を思い出し、言い添えた。

 大河が口の端で微笑んでいる。

「病床で、ずっと考えていました。自分の何が足りなかったのか、ニルヴァーナの使命を達成するため自分に何ができるのか。答えを求めてコズミックソウルにひたすら祈りつづけていました」

いったん口を開いたら、すらすらと嘘が滑り出してくることに我ながら驚いた。

「そうして遂に昨夜、聖なる夢を見ました。私は目映い光の中で偉大なる声を聞いたのです。確かに、メサィアのお声でした。細部は忘れても、そのメッセージだけは鮮やかに心に刻み込まれています」

「メッセージ…」と大河は顔を顰めたが、遮ったりはしなかった。

「はい。それは、こういうことでした。DFとカルトSOSが私たちの基本的人権を、信教の自由を侵している現実を社会は何も知らない。その現状をニルヴァーナや他の教団の信者に取材して、マスコミで人権侵害の実態を暴いてゆく。これこそ私の使命だと、夢の中でメサィアは言われました。実際カルトSOSの一方的な教団批判は余りにも不公平です。報道の公平性に立つジャーナリズム精神に訴えれば、耳を貸してくれる善意のマスコミも必ずいるはずです。どうか私にもそのお役に立たたせてください」

 力み過ぎて声が裏返ってしまった。

 森脇が大河の耳元に何か囁いた。緊張する間もなく、大河が微笑を浮かべこちらへと近付いてくる。

「逆境こそ魂の試金石。私の声を聞くほどに霊的成長を遂げたとは」

 沙紀に肘を突かれ、南は慌てて立ち上がり〈宇宙の印〉を組んだ。大河の前に跪くと、その手が頭上に翳されたのを感じた。

「ミッション・メディア・ピューリフィケーション。情報を浄化せよ。春日南、コズミックソウルの名の下に、ミッションMPを託そう。ニルヴァーナ」

 一瞬、何が起きたのかわからなかった。

それでも反射的にニルヴァーナの印を組み、その流儀で応える。頭上から背筋を電流のような衝撃が駆け抜けた。

「春日南、カルトSOSの蛮行をどんどんマスコミに暴露なさい。今日からあなたには森脇の率いるAIN特別企画室で活動してもらおう」

 驚きの余り返事もできなかった。本当に大河光を騙し、まんまと使命を授かってしまったのだ! 余りにも呆気ない展開に、張り詰めていた緊張感も一気に抜けてゆく。

 森脇から何か書類を手渡された。信教の自由を守る会に参加した教団の一覧だった。各教団広報の担当者名と電話番号も添えられている。

「それぞれの広報担当と連絡を取り合いながら進めてほしい。POLから始めてください。記事はまず、制作中の『信教の自由を守る会』のホームページ上に掲載します。世間の同情と怒りを煽るレポート、期待してますよ。じゃ、葵さん、彼女を特別企画室に案内して」

ドアのところで森脇は南の耳元に囁いた。

「2度とあんな思いはさせない。今度こそ必ず君の力になるから」

 思わず足を止め、森脇を見上げてしまう。真剣な眼差しが自分に注がれていた。一瞬、心が竦んでしまう。

「ニルヴァーナ! おねえちゃん、おめでとう!」

 ホールに出たとたんに沙紀から抱きつかれた。良かったね、良かったね、と喜んでくれる彼女を前に、南は頬が引き攣るのを感じた。二人を騙している現実に、心が鉛になって沈み始めた。

 



 

この後12章続く

 



© Ako Mak 2018

All copyright is reserved by Ako Mak, マックあつこ