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 インスタント・ニルヴァーナ

上巻

  

マックあつこ

  

 

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目次

プロローグ

(1)前世セラピー

(2)破局

(3)シンクロニシティ

(4)クリスタル・ピラミッド

(5)失業

(6)前世の記憶

(7)セラピスト養成講座

(8)二つの野望

(9)癒しのリトリート

(10)オラクル2007

(11)蘇ったトラウマ

(12)救出カウンセラー

(13)AZTΩh超意識のセラピー

(14)リボーン

後書き

参考文献

著者紹介

 



プロローグ

 *

 

「AZストリート探検隊」毎月楽しく読んでいます。

ところで「前世セラピー」って、ご存知ですか?

バイト先の友達から手首恐怖症(なんてあるの?)に悩まされていたっていう人の話を聞きました。彼女にふざけて手首を見せると、血管が怖い~って、真っ青になって座り込んでしまったんだそうです。

それがコンタクト・セラピー・クリニックの前世セラピーのセミナーに参加して、手首を切って自殺した前世を思い出した。思い出したら恐怖症も治ってしまった!?って言うんですよ。もう手首見てもなんともない、とか。

どういうことなんでしょう? だいたい前世の記憶なんて、あり? でも妄想なら、なんで治ったの?

興味あります。どうか探検隊でレポートしてください! 

東京都・前世何子(匿名)

 

  

 1997年、夏―

 それは、編集プロダクションMAGZに届いた1枚の葉書から始まった。

 

 



(1)

前世セラピー

 

〈コンタクト・セラピー・クリニック〉は、渋谷区猿楽町の緩い坂を上ったところにあった。比較的新しいビルで、外観から1階と2階がコンタクト、3階と4階が居住用マンションのようだ。黒い大理石に<GAIAIビル>と金文字で刻まれている。ここだ…。

 春日南は左手に握ったファックス用紙を開き、担当者の名前を確認した。

<催眠療法士、桜久美子>

 汗で感熱紙の文字が滲んでいる。代官山駅から歩いた時間など7、8分だろうに、全身もう汗だくだった。約束の時間には10分早く、カメラマンも未だだったけれど外で待つには暑すぎる。何より渦巻く蝉の声が鬱陶しかった。

 蝉の声は、苦手だ。聞いていると何か追われるような気がして、目眩さえ覚えてしまうのだ。

 それにしても、とふっと南は思う。クリニックというからには、ここは病院なのだろうか? 

 ロビーは、ブティックホテルのラウンジ並に優雅な雰囲気を醸し出していた。モダンアートに大ぶりの観葉植物。ショパンをBGMに、ゆったりと配置されたテーブルを囲んで女性たちが談笑している。

 思いのほか「ハイソな」雰囲気に気後れして咄嗟に壁の鏡を覗き込んでしまった。タイトな白いシャツに青い細身パンツ。汗で化粧が崩れたかと気になっていたけれど、シャギーを入れたストレートの髪は軽快に肩先で踊り、それなりに知的に見せようと奮闘したメーキャップも未だ健在である。

「こんにちは。今日のエネルギー・フィールドはいかがですか?」

 カウンターから受付嬢が親しげな微笑を投げてくる。

「今の気分は、ポジティヴですか?」

「はぁ?」

 思わず首を傾げてしまったが、受付嬢は益々にっこりと微笑んだ。

「気は、宇宙のエネルギーと調和していますか?」

 宇宙の…エネルギー?

 曖昧に微笑み返し、用件と担当者の名前を告げた。受付嬢が笑顔を貼り付けたまま受話器に手を伸ばす。

「桜はすぐ参りますので、お掛けになってお待ちください。お飲み物には何をお持ちしましょう? コーヒー、紅茶はホットにアイス」

「じゃあ、アイスコーヒーを」

 どこか奇妙な雰囲気に圧倒されつつ、南は促されるまま窓際のテーブルに付いた。受付嬢がトレーを手にやって来る。

「ごゆっくり。どうぞ美しい午後を!」

 屈託のない笑顔ではあるけれど、やはりピントがずれている。<前世セラピー>などというものを扱うクリニックというのは、普通とは少し違うものなのかもしれない。

 冷えたアイスコーヒーに口をつけ、先月号の『月刊ストリートAZ』と編集部に届いた葉書を取り出した。丸文字でびっしりと書面は埋められている。「思い出した」に赤いアンダーラインまで引かれている。思わずまた首を傾げてしまった。前世を「思い出す」とはいったいどういう意味なのだろうか?

 隣のテーブルから軽やかな笑い声が上がった。いかにも有閑マダムふうの女性が3人、水滴滑るグラスを前に囀っている。足元にはシャネルやヴィトンのバッグ。まるで社交クラブだ。彼女たちも前世セラピーとやらを待っているのだろうか?

 ふっと背後に人の気配を感じた。振り向けばスーツ姿の女性が自分を見つめ突っ立っていたので、驚いてしまった。いつからそこにいたのだろう? 値踏みするかのようにこちらをじっと見つめていたのだ。

「ストリート・アズの春日さんですね? お待たせしました。コンタクトの桜です」

 けれど彼女は気まずさも見せず名刺を差し出してくる。ハスキーな落ち着いた声だった。

 南も名刺を出そうと腰を上げれば、桜はかなり長身である。南自身も163センチあるけれど、10センチは高い。折れそうに細い体、ショートボブにした艶やかな髪、切れ長の一重瞼。一見ファッションモデルふうなのに、地味なベージュのスーツのせいか、辛気臭い印象を与えてしまっている。30代前半というところだろうか。

 スーツの胸元に〈桜久美子〉と記された名札と、コンタクトの社員章なのだろう、小さなバッジを付けていた。名刺には〈コーディネイター〉と〈ヒプノシス・セラピスト〉と二つの肩書きが並んでいるけれど、療法家というよりセラピーが必要な類の人間に見えた。

「今日は、私どもの前世セミナーを取材されたいというお話でしたよね?」

 雰囲気に似合わずハキハキと桜が話し始める。

「はい、電話でもお話しましたが、アズは20代女性をターゲットにした情報誌でして」と雑誌を捲り、白黒ページを桜へ向ける。

「この、アズ・ストリート探検隊ってページなんですけど」

 それは、読者から募った気になる場所やイベントを編集部がルポするという連載モノで、半年前に南が立ち上げた企画だった。だが肝心の読者からのリクエスト葉書はAZの発行部数同様頼りないもので、通常は南が読者を装いネタまで探す有様ではあるが。

「この、アズ・ストリート探検隊ってページなんですけど」

 それは読者から募った気になる場所やイベントを編集部がレポートするという連載モノで、半年前に南が立ち上げた企画だった。だが肝心の読者からのリクエスト葉書はAZの発行部数同様頼りないもので、通常は南が読者を装いネタまで探す有様ではあるが。

 改めて企画主旨を説明し、編集部に届いた葉書を差し出す。

「まあ、そんな葉書が」一読すると、桜は照れたように笑った。

「お恥ずかしいわ。でも数多くのリクエスト葉書から私どものセミナーを取り上げてくださって、ありがとう」

 取り上げるも何も、届いた葉書は後にも先にもこれ1枚である。内心恐縮しつつ尋ねた。

「この方にお心当たりは?」

「さあ…。こういう方は多いですから、お名前がわかりませんと」と桜は首を傾げ、「春日さん、前世セラピーはご存知ですか?」

「いえ。それで私も個人的に興味があるんですが。ここに手首を切って自殺した前世を思い出したってありますよね?

思い出すって、どういう意味なんでしょう? 明らかに霊媒師や占い師によって一方的に告げられる前世話の類とは違うようですが」

「もちろん」と、桜は得意げに顎を引く。

「私たちはセラピストで、占い師ではありませんから。私たちがクライアントの前世を言い当てるわけではなく、心を癒す治療の過程でご自身が思い出されるんです。前世セラピーとは、前世にまで溯って心理的問題を解決してゆく心理療法です。時間もございませんので手短にご説明しますね」

 手早く南はバッグからマイクロレコーダを取り出した。後で言った言わないで揉めることのないように、取材の際は録音している。

「春日さん、無意識という概念は、ご存知ですか?

 人の心には、普段は意識されない無意識と呼ばれる領域があって、そこにトラウマ、精神的外傷を抑圧してしまうことがあるんです。抑圧することで、記憶しつづけるには辛すぎる体験を意識から締め出してしまうんですね。だけど実際は忘れてしまうだけで、決して消えることはない。次第に神経症という形で現れてしまうんです。春日さん、恐怖症は?」

「閉所恐怖症とか、高所恐怖症とか? 聞いたことはありますけど」

「恐怖症って言うのは、特定の物事や状況に対して、これといった理由もないのに、強い恐怖や不安に捕われてしまう神経症の一種です。その原因を探り当てるのに、従来の精神分析では自由連想法や夢の分析によって意識下の記憶を探ってきました。これに対して、催眠を使って時間を退行させて、直接その原因となった記憶を探り当て、治療に役立てようとするのが、催眠療法なんです。意識を幼児期へと遡らせる退行催眠は、ご存知ですよね?

 前世セラピーではこれを進めて、前世にまで時間を遡って原因を探ってしまうわけなんです」

「でも催眠を使ったからって、そんな前世になんて、記憶を溯れるものなんでしょうか?

その、前世があれば、の話ですけど…」

 軽口を叩いたつもりだったけれど、桜の方はにこりともしなかった。

「催眠とは、オカルトでも魔法でもありません。単に意識を一つのことに集中させる方法です。私は催眠によって皆さんをトランス、変成意識に導き、忘れていた記憶に焦点を当てることができるよう、お手伝いするだけです。もちろん、深い催眠に入れるかどうかは個人差がありますよ。一般には人口の4%から10%と言われていますね。春日さん、ちょっと上を見ていただけます? そうそう、上を見つめたまま、ゆっくりと瞼を閉じて」

 促されるまま天井に焦点を当てて瞼を閉じようとしたけれど、難しい。

「うーん」と桜は唸り、「黒目が天辺に上がったとき、どれくらい白目が出ているかと、瞼を閉じるとき、どれくらい白目が見えているかで、かかりやすさを見ることができるんです。白目が多く見えるほど深い催眠状態に入る能力を持っている。春日さん、あなた、催眠にはかかりにくいタイプかもしれませんね。神経症に悩んでらっしゃるわけでもないし、ちょっと難しいかしら?」

「ダメですか? 参ったなぁ、そうすると記事が」

「とにかくやってみましょう。で、先程の話に戻りますけど、過去の記憶を探っても神経症や恐怖症の原因が掴めない場合、前世に潜んでいることが多いんです。とりわけ前世の死に方と関係あるみたい。日本ではまだマイナーな心理療法ですが、欧米の精神科医や心理学者の間では広く普及していて、アメリカでは80年代に前世研究治療協会が設立されたほどなんですよ。とりあえず私どもの資料をお持ちしましたから後でお読みください。それとこれ、お差し障りなかったら。初めて参加される方に記入してもらっているんです」

 手渡されたのは、〈クライアント・ノート〉と記された、サービス業界が顧客管理に使うアンケート用紙のようなものだった。南は手早く氏名、住所、電話番号、生年月日、職業などの欄を埋め始める。

「あら、29歳。お若く見えるのに、春日さん、あんまり私と変わらないんですね」

 書き込む側から桜はいちいち口を挟んできた。

「趣味は仕事、筋トレ、カラオケ、食べ歩き、煙草、コーヒー、酒。まあ、多趣味でいらっしゃるのねぇ」

「はあ、まあ」適当に相槌をうちつつ、記入を終えた。最後の質問、〈現在の心理的諸問題〉は無視することにした。

「心を悩ませるようなトラブルは何一つないってことかしら?

 今の生活に100%満足なさって、完全に幸福でいらっしゃるのね?」

 探るように桜が瞳を覗き込んでくる。

「春日さん、あなた今、幸せですか?」

 ペンを取り落としそうになった。初対面の人間から面と向かってこんな質問を受けたのは初めてだ。不躾とも言える視線に、土足で心に踏み込まれたような違和感と居心地の悪さを覚えた。

「そりゃ…100%ってことは、さすがにありませんけれど」動揺を抑え答えると、桜がなぜか満足そうに頷いた。

「そろそろ参りましょうか。セミナー会場にご案内しますわ」

「あ、でもカメラマンがまだ」反射的に南は周囲を見回し携帯を掴んだが、桜に遮られた。

「構いませんわ。いずれにせよ、セミナー中の撮影は控えていただくつもりですので」と桜は事も無げに言い放つ。

「セミナー中の撮影はって、そんな話は」

「それからセミナー中はメモを取るのも控えてください。取材も、予めこちらで了承を得た方に限らせていただきます」

「そんな…。でも写真は? 雑誌ですから写真がないと」

「建物も顔写真も、セラピー以外の写真であれば、いくら撮っていただいても結構です。撮影の際にはプレスの戸田というセラピストがご案内しますから。さあ、どうぞ」

 促され、南もエレベータに乗り込んだ。取り付く島もないような一方的な要求に憮然として、細面の横顔を見詰めてしまった。桜がにっこりと微笑んだ。

「ごめんなさいね。すべて治療のためなんです。セラピーは極めてデリケートで個人的なことですから。クライアントに心理的負担をかけないよう十分な配慮が要るんです」

 大きく一つ、わざと溜息をついてから頷いた。

 

* * *

 

 そこは、密室と呼んでいいほど薄暗い空間だった。窓は黒い厚手のカーテンで覆われて、天井の照明も抑えられている。小川のせせらぎのようなメロディーがBGMに流れていた。お香の強い香りが鼻を衝く。

 U字型に並べられた五つの寝椅子の上で、人影が蠢くのがぼんやりと見えた。春日南は言われるまま通路側の寝椅子に横たわる。

「もう暫くお待ちください」桜久美子が囁いた。

 このまま昼寝でもできそうな椅子なのに、無性に落ち着かない気分にさせられる。リラックスさせようとする意図が見え透いていて、逆に鼻白んでしまうせいかもしれない。わざとらしいニューエイジ音楽は聴覚に、インド産と思しきお香は嗅覚に、薄暗さは視覚に、リクライニングチェアのクッションは触覚に、こちらのα波を刺激しようと訴えかけているようだ。

 前世セラピーか…。この程度の小細工で前世が〈思い出せる〉とは、南にはとうてい思えなかった。

「さあ、ゆったりとリラックスしましょう」

 誰かが中央に立った気配がする。

「瞼を閉じ、ゆっくりと呼吸をしてください」

 桜だ。すぐさま南は、右脇に置いたマイクロレコーダの録音ボタンを押した。桜の少し掠れた声が穏やかに澱みなく流れる。

「右手をゆっくりと上げてください。そうして、すとん、と落とす。するとほぅら、右手がゆったりと寛ぎました」

 マイクロレコーダを落とさないように南も右手を上げ、落としてみた。

「今度は左手を上げ、すとんっと落とす。さあ、左手がゆったりと寛ぎました。はい、次は、右足を上げて、すとん…」

 ぼんやりと薄闇に、数本の白い手がすうっと伸びてはさっと下りる。続いて数本の足がにょっきりと上がって、下がって―。

「さあ、呼吸に意識を集中しましょう。息を吐くたびに、体に溜まった疲れやストレスがすうっと吐き出されてゆく。息を吸い込むたびに、ゆったりと体がリラックスしてゆきます。息を吐くたびに…」

 桜のリズミカルな口調が薄闇を撫で、南は大きく息を吐く。セミナー中の撮影は控えて―。思い出せば息というより溜息が漏れてしまう。

「あなたの回りにあるすべての些細なトラブルを忘れ、呼吸に意識を集中してください。仕事も、家庭も、恋人も、義務も、責任も、病気も、すべて、今は忘れてください。ゆったりと寛いでゆく。息を吐くたびにあなたを悩ませていた問題がすうっと吐き出され、息を吸うたびに…」

 とにかく、風景と顔写真だけでいくしかないのだ。白黒ページだからそれでもなんとか体裁はつくだろうけれど―。

 それにしても望月彰、あの遅刻魔カメラマンは何をやっているんだろう? あんなバイト気分の青二才がMAGZ唯一の専属カメラマンだなんて…。いくら弱小プロダクションとはいえ、もう少しマシな人材を雇えなかったものか? 思えばだんだんと腹が立ってくる。

「さあ、完全にリラックスしましたね。あなたは今、心地よぅく空を漂っています。ふわふわ、ふわふわ。その感覚を楽しんでください。どんな空ですか? 青空ですか? 夜ですか? 雲は見えますか? 陽の光を感じますか?」

 ハッとして目を開け、周囲を伺った。

 まずい…。このままでは取り残されてしまう。ロクな写真もなく、何も起こりませんでしたでは、つまらな過ぎるではないか。

「あなたは今、完全に自由です。目映い光が頭上で輝いています。力強い、愛の光。光があなたの中にすうっと入り込んできました。ほぅら、あなたは完全に守られましたよ」

 守られましたと言われても、瞼の裏は真っ暗である。

 非常に、ヤバイ。瞼の閉じ過ぎだろうか? 閉じ具合を微妙に調整し、ぐるぐると眼球を動かしてみた。とにかく、光なのだ。まずは光を思い浮かべなければ―。だけど愛の光って、いったいどんな光だぁ?

「その目映い光があなたを導いてくれます。光に続いて、さあ、あなたを脅かす問題の原因となった場面に、前世にまで、時間を溯りましょう。今から三つ数を逆に数えると、あなたは正に前世の、真っ只中にいます。3、光を追って。2、光の中を潜り抜け。1、光の向こうに、はいっ、何が見えますか」

 仰向けに横たわったまま南は諦めて天井を見つめた。もう今更退行催眠になど、ついてゆけそうにもなかった。今回は自分の体験報告は控えて、参加者のインタビュー記事でお茶を濁せばいい。今月は特集も持っていないから、これを入校すれば終わりだ。後は初校と、色校と。

 暇潰しに天井の四角い枡を数えてみる。白い天井板を埋め尽くす無数の通気孔を見つめてみる。徐々にそれが、まるでさんざん虫に食われた古い天井板に見えてきた。今にも無数の小さな穴からうじょうじょと蛆虫たちが這い出してきそうだ。

 ふと子供のころ、天井の木目が恐かったことを思い出した。布団に入ってじいっと天井を見つめていると、木板から人の顔が浮かび上がってきたものだ。錯覚かと目を凝らしていると、いくつもいくつも、次第に何人もの顔が現れて、遂に天井の幽霊たちはもそもそと蠢き出すのだった。叫び声を上げそうになって、隣で寝ている愛美に手を伸ばせば、「なぁに、眠いよ、おねえちゃん」妹はむずかりながらも小さな手で握ってくれた。

 メグ…。

 丸い目に赤いほっぺたの愛美が浮かぶ。涙が零れそうになってハッとした。どうしてこんなことを思い出してしまったのだろう? 催眠が効いてきたとでもいうんだろうか? 記憶の中の妹は何年経っても五つのままだ。

 大きく息を吐き出した。人の命なんて、儚いものだ。

 だんだんと瞼が重たくなってきた。無理もない、昨日も一昨日も午前様だった。仕事に追われ飛び回るうち、毎日はあっという間に過ぎてゆく。今年は夏休みも取らなかった。それもそれ、それなりに楽しいけれど、後何年こういう生活を続けてゆけるだろうか? 30過ぎると続けたくても体がついてゆかないかもしれない。

 だからさぁ南、いつまでも今のままでいられるわけじゃないんだよ。

 いつだったか、和幸が言った。

 大沢和幸。同じ大学のテニスサークルで1年先輩だった彼との交際は3年前、彼が長野に転勤になってからも続き、そろそろ10年近くになる。

「ニェート!」

 突然、誰かが叫んだ。驚いて南は寝椅子から跳ね起きた。

 反対側、奥の寝椅子の上で女性が激しくもがいていた。わけの分からない言葉で何か叫び、泣き喚いている。真っ赤なサマードレスの裾が捲れ、白い太腿が宙を蹴り上げるのが見えた。

 暴れて寝椅子から転がり落ちてしまうのではないかと南は駆け寄ろうとしたけれど、桜がそれを制するように首を振る。桜は真っ赤なドレスに近付くと腰を屈め、耳元で何か囁き始める。次第に悲鳴は喘ぎ声に、女性はだらりと萎えたように静かになった。

 横になろうとしたら、今度は隣の女性が喚き出した。形のない誰かに挑みかかっているかのように、滅茶苦茶に拳を振り上げ、怒鳴っている。彼女が頭を振るたびにメデューサのような長い髪が寝椅子の上で四方八方に跳ね上がる。

「ギャーッ! ギャーッ!」

 悲痛な叫びに、南は半身を起こしたまま呆気に取られて見入ってしまった。けれど他には誰一人、起き上がろうともしない。

 どうなって…いるのだ? 

 異様な光景に横たわるのも忘れ、じっと目を凝らし周囲を伺っていた。薄暗い電灯の下、こちらに近付いてくる細く長い影が浮き上がる。桜が南のすぐ隣、暴れる黒髪の傍らに屈み込み、耳元に何やらそっと息を吹き込んでいる。

「3、2、1…」

 ふっとまた辺りに静寂が戻った。

「春日さんも、さあ、瞼を閉じて」と、ふいに桜が南の耳元に囁きかけた。

「結婚…。そう、ここでのテーマは、結婚です」

「えっ?」南は思わず切れ長の瞳を見つめ返してしまったが、桜は微笑を浮かべ頷く。

「ゆったりとした呼吸を繰り返しましょう。深ぁく息を…」と、暗示を掛けるように囁き続ける。

「では、結婚に、意識の焦点を当ててください。あなたが結婚を考えられる男性、その人を心に思い浮かべましょう。どんな人ですか?」

 それでも、いつしか大沢和幸が浮かんでいた。大きな体に四角い顔、縁なし眼鏡の奥に覗く人なつこい目、眼鏡をかけた熊のプーさん。ぼそぼそと呟くような声音で、「そろそろ、長野に来ないか」

「何が障害になっているのでしょう? あなたが結婚するのを邪魔しているすべての思い、すべての問題を思い浮かべてください」

 結婚、仕事、家庭、長野。結婚して長野に行き、そして―。そこで自分は何をするというのだろう? 今の仕事を放り出すなど、母親になった自分など想像もできない。結婚は彼が東京に戻ってからで―。

 そのとき、さっと空気が揺れた。桜が立ち上がった気配に瞼を開ければ、ふいに白日夢から我に返る。

 自分は何をしているのだ? 

 薄闇の中、桜の後姿を思わず睨んだ。ちょっと待ってよ、ここでのテーマって何よ、それ! 前世療法じゃなかったの? なんで結婚がテーマなのよ、と。

 向こうでまた誰かの喚き声がした。

 

* * *

 

 上映を終えた映画館の照明が灯るように、ゆっくりと薄暗い空間に光が戻る。春日南はマイクロレコーダの録音ボタンを止め、寝椅子から立ち上がった。

「如何でした?」と桜久美子が微笑み近付いてくる。

 礼を言ってから、さり気なく尋ねた。なぜ個人的に誘導をかけてきたのか、と。すると桜は視線を宙に浮かせ、躊躇いがちに聞いてきた。

「立ち入ったことをお伺いして何なんですけれど、春日さん、恋人はいらっしゃいます?」

 唐突な問い掛けに戸惑ったものの、南は結婚を考えている恋人がいると答えた。桜は頷き、それから溜息を吐いた。

「差し出がましいのですが、今の生活を続けていらっしゃる限り、春日さん、ご結婚は難しいかもしれません。後であなたがその…、泣くことになるかもしれない」

 カッと頬が火照った。

「はあ?」

 南が何のことだかわからないと言うように露骨に顔を顰めてみせると、桜は恐縮したように頭を下げた。

「ごめんなさい、ちょっと気になったもので…。でも、余計なことでしたね。忘れてください」

 結婚したがっているのは私よりも相手の方です! 喉まで出かかった言葉を、周囲を意識してなんとか飲み込んだ。

「桜さん、ロビーの撮影、終わりましたけど」

 どたばたと白いパンツスーツを着た小柄な女性が駆けて来た。その後ろにカメラ機材を抱えた望月が見えた。

「じゃあ、そろそろ取材の方をお願いできますか?」そう言うと、桜は寝椅子の横で立ち話をしていた女性二人を紹介した。

 赤いサマードレスの女性と、ソバージュにした長い髪の女性。長髪の方は隣の寝椅子にいた女性だと気がついた。二人ともセラピーの興奮が冷めないらしく、我先にと話し始めた。

 



この後14章続く

 




Copyright © Ako Mak 2017

『インスタント・ニルヴァーナ1』 2017年8月29日 発行

著者 マックあつこ 

本書の一部あるいは全部を、著作権者の承認を得ずに無断で複写、複製することは禁じられています。

 

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