冒頭サンプル章読み


 

 

Tamago

―39歳の不妊治療― 

 

マックあつこ著

 

  

 

▶ Kindle 無料サンプル

 

 


目次

[プロローグ]29歳の誕生日(10年前、東京で)

第1部 BERKANA

[1]39歳の誕生日

[2]月の贈り物

[3]不妊症なの?

[4]クレアのお告げ

[5]不妊症ですが、それが何か?

[6]初めてのIVF

[7]おめでた

[8]卵子年齢

第2部 NAUTHIZ

[9]コミットメント

[10]プレ妊娠!

[11]ドナー

[12]ついに40の声―

[13]神経症

[14]まさかの大逆転

[15]悪夢

[16]受精卵の魂

[17]新生児

第3部 URUZ

[18]再出発

[19]養子縁組への道

[20]地蔵菩薩

[21]胎児の囁き

[22]癒し

[23]最後の望み

[24]夜明け

[エピローグ]26週間後

 

[あとがき]



[プロローグ]

29歳の誕生日(10年前、東京で)

「妊娠しました!」と送られてきたメッセージに一瞬、唖然としてしまった。

  なんだか肩透かしを食わされたような気がしてしまう。立ち位置さえ変えられないほど混み合った車内で、縄抜けさながら身体をくねらせ筋トレさながら力を振り絞り、やっと携帯電話を取り出したのだ。こんな早朝に入る連絡なら緊急事態に違いないと思った。田舎の祖母が倒れたとか、今朝の3社コンペの場所が急遽変更になったとか。それが、取れなかった電話の後を追うように送られてきたメッセージがこれなんだから。

 妊娠― そりゃあ、相手が不倫だとか、一夜のアバンチュールだったとか、本人来週ボンベイ支社に転勤が決まっているなぁんて事態なら、気が動転しちゃってこんな時間帯に電話しちゃうのもわかるけど、そんなニュアンス全くないし。そもそも差出人の朋子というのは数年前に寿退職を決め込んで、以来習い事に忙しいってタイプの、いわゆる優雅な専業主婦なわけで。申し訳程度に「お誕生日おめでとう!」なぁんて追伸されているのも、なんだかなぁ…って感じで。

 だけど正直、女友達ご懐妊のニュースに複雑な思いも湧いてきた。そう、誕生日。昨日で私は29歳になったのだ。ということは、来年は30歳になるわけで。仕事の方は転職も果たして思いのほか順調だし、焦る必要もないって頭ではわかっているのだけれど。結婚って言葉が年々重たぁくなっている。心の中は、もう29歳、まだ29歳…。

 そう、会社を変わって仕事が忙しいっていうのに、昨夜一緒に誕生日を祝おうと言ってくれた雄一の誘いにのってしまったのも、これが29歳の誕生日だったから。そのうえ郊外に一戸建てを買ったという彼の言葉に悪酔いしてしまって、今朝一番で3社コンペがあるというのに、つい彼の家に泊まってしまった。おかげでこうしていつもなら決して乗らない、郊外から都心へ向かう朝の殺人的急行列車に揺られているというわけで。嘘っ、いやだ、どうしよう、昨日とスーツが同じじゃあないの!

 大手通信会社に勤める鈴木雄一とは、転職のコネでも見つかるかもしれないと参加した卒業大学のOB会で知り合った。付き合い始めて3か月になるけれど、お互い忙しくてデートもまだ数えるほどしかしていない。出身は長野県で、大学では山岳部に所属していたとか言っていたっけ。そう、体育会系。いつのまにか人混みに押されて遥か向こうに見える雄一は、朝から疲れた乗客の中で頭一つ突き出して、清々しい様相で立っている。健康そうだし、真面目そうだし、頼りになりそうだし、優しいし、そこそこ面白いし、何よりも―独身。その横顔を見ながら思う。この人はいつか自分の夫になるんだろうか、と。

 次の駅で、これ以上はネズミ1匹だって入る隙間はないだろうと思っていたのに、更に人が乗り込んできた。身動きが取れないどころか押し潰されそう。このぶんじゃあ新宿駅に着く頃には筋肉痛になっていそうだ。ゴツンと何か固いものが肩にぶつかった。なんとか首を捻れば、嘘でしょ、ベビーカー…?

 あろうことか、女性がベビーカーと赤ちゃんを抱えているんだ。どうしてこんなラッシュ時の急行電車に赤ちゃんを連れた女性なんかが乗っているんだろうか? せめても各駅停車の方なら少しは空いていそうなのに。

 驚きのあまり、つい視線が行ってしまった。混んでいてよくは見えないけれど、どうやら片腕に赤ちゃん、もう一方の肩にはベビーカー、そのうえ巨大なショルダーバッグまでかけているようだった。自分と同年代か少し若いくらいだろうか。小柄ながらバランスを崩すことなく足を踏ん張って、ていうか、この混みようじゃあ倒れるほどの空間的余裕もないんだろうな。

 赤ちゃんの方は、青い服を着ているからたぶん男の子なんだろうけど、なんとこの状況で眠っていた! ふくよかな頬を母親の肩に預け、安心しきったあどけない寝顔で、すやすやと。その光景は殺人的列車とはあまりにもかけ離れていて、そこだけ異空間にあるような、見ているこちらの方がなんだか眠たくなってくるような。通勤電車で吊革に掴まり立ったまま眠っているサラリーマンを見かけることはあるけれど、この子も案外ラッシュ時の車内に慣れているのかもしれないな。そうすると彼女はワーキングマザーなのかな? 近所に託児所の空きがないという話は聞くけれど、会社近くの託児所にでも預けてゆくんだろうか?

 電車が揺れて微妙に皆の立ち位置が変わったとき、紺色のジャケットを着たその女性の肩が赤ちゃんの涎でねっとりと汚れているのに気が付いた。あらら、お気の毒に、あれで出勤は、自分の連チャンスーツよりもキツイだろうなぁと思ったとたん、ハッとした。

  昨夜は、大丈夫だっただろうか? もちろんコンドームは使ったけど、万が一、漏れてでもいたら…? まさか、昨夜は危険日だったんじゃ…? 確か、妊娠しやすくなってしまう危ない日っていうのは生理と生理の間だっていうから…。あらっ、間って、前回の生理が始まった日と次回の生理予定日との間だったっけ? それとも前回の生理が終わった日との間で? ていうか、そもそも先月の生理っていつだった? ああ、もう忙しくて生理のことまでいちいち覚えてないし。いやだ、まさか―

 考えるほど不安になってきた。どうしよう。やっと大手のコンサルタント会社に転職を果たしたばかりだというのに、妊娠なんかしている場合じゃないのに…。新卒でも女子学生の正社員採用は難しいと言われて久しい、就職氷河期も鍋底不況もいつまで続くのかっていうシビアな雇用情勢下で、周りからも絶対無理だと太鼓判押されながらも(?)遂に果たした転職なのに…。しかも正社員採用で。これからクライアントも開拓して、大きなプロジェクトも任せてもらえるように全力を尽くそうと思っていた。それがこんなときに妊娠してしまったら…?

 ふいに人の波が大きく動いた。窓の外を見やれば私鉄や地下鉄と接続する下北沢駅だった。プラットホームの人混みにさっきの女性が見えた。赤ちゃんを片手に抱いたまま、群衆のペースを乱すこともなく颯爽と歩いている。歩きながら器用にベビーカーを開く。なのに、立ち止まることもなく素早く赤ちゃんを座らせて、人の波に乗ったままホームを歩き続けてゆく。嘘でしょ、なんて超人的なの! 一連の優雅な動作に見惚れてしまった。

 電車が親子を追い越したとき、彼女の頭が何か小さな帽子でも被っているかのようにツートンカラーであることに気がついた。オレンジブラウンに染めた髪の頭上の方だけがまあるく黒い。忙しくて、きっと染め直す暇もないんだろうな。

「お気の毒に…」思わず呟いてしまったとたん昨夜の記憶がまた蘇った。

 まさか、そんな…。

 彼女の後ろ姿がふっと未来の自分に重なった、ような気がした。

「何か言った、月子?」いつのまにか隣に立っていた雄一が顔を覗きこんでくる。

「ううん、別に」と曖昧に答えた自分の声が妙に乾いて響く。雄一に抱いていた思いが、一気に冷めてしまっていることに気がついた。ああ、もう…。

 どうか絶対に妊娠なんかしていませんように。

 



 

第1部

BERKANA

新しい命


[1]

39歳の誕生日 

 36度9分! 嘘、1分、上がった?

 目の錯覚かと婦人体温計の文字盤をナイトスタンドの灯りに翳してみたけれど、やはり36度9分である。だけど予定では今日、生理になるはずじゃあなかった?

 逸る心を抑え、基礎体温表をベッドサイドテーブルから引っ張り出し、今月の線グラフを辿ってみる。やはり、そうだ。昨日は月経周期の27日目で、いつもなら体温の下降する時期なのに高温期が続いて、今日また上昇したのだ。こんな時期に上がるってことが何を意味するか、基礎体温表をつけたことのある女性なら誰でも知っている。もしかして!

 弾んだ心に、ぴしゃりと理性の声が呼びかけた。だから月子、お待ちなさい、人生それほど甘くはないと、もうわかっているでしょう。ぬか喜びする前に測り直した方がいいよ、と。

 この半年間というもの、わたしの朝はデジタル体温計で明けていた。測定値を基礎体温表に記録しては今後の戦略を立てるんだ。直に排卵しそうだからロマンチックな、もしくはエロチックなDVDでも借りてセクシーなランジェリーでも着けようかとか、一気に(といっても1、2分なんだけど)下がってしまったから、2、3日中に生理がきてしまうだろうと身構えたりとか。わずかな数字の変動にもネット投資家さながら一喜一憂しつつ。

 思えば、クライアントの売上高や利益率の推移なんて数字に神経を擦り減らす日々に疲れ、仕事を辞めて東京からメルボルンへ移住したというのに、今や自分の基礎体温表に並ぶ地味ぃな数字に踊らされているんだから。人生って、皮肉。そのうえ経営戦略に比べて受胎のために打ち出せる策ときたら、なんと少ないことか。

 ピピッと、測定完了のベル。やはり36度9分である。本来なら3日前には下降して今日あたりから生理になるはずが、前代未聞、上がっているんだ。ほら、見て。過去半年間の記録では、36度5分前後の低温期と36度8分前後の高温期の2層にくっきり分かれて、判で押したようにきっかりと28日周期で生理になっているでしょう。そう、たまには1日くらい遅れて希望を持たせてくれてもいいのにと何度願ったことだろう。だけど今、その小憎らしいほどパターン化された線グラフに乱れが見える!

 ねえ、見て、ルパート!

 隣で眠る夫を揺さぶりかけてハッとした。いやだ、今日って…。そうだった。できれば忘れたかったけど、今日はわたしの誕生日なのだった。とたんに興奮の波も引いてゆく。今日でわたしは39歳になったんだ。ということは、来年は40歳になるわけで…。若ければいいなんて思っているわけではないのだけれど、婦人体温計を避妊目的ではなく、妊娠したくて使っている身には気の滅入る事態だ。

 39歳か―。29歳にしろ、39歳にしろ、次世代に入る一歩手前の年齢というのは微妙だと思う。30代に遣り残したこととか、40代をいかに生きるか、なぁんてことを考えずにはおれないから。40代の自分―。

 40歳って年齢は、この国でも微妙なのだと友だちのクレアが言っていた。「ミッドライフ・クライシス―中年の危機」って英単語まであるくらい。人生も半ば、折り返し地点に差し掛かり、ひぃひぃ登ってきた道を振り返れば、さして美しくもドラマチックでもなく、目の前には何てことない単調な道が続いていて、この先はゆっくり坂を下るだけ。重苦しい諦めの中、それでもまだなんとかなるかもしれないって希望の燃え滓が燻っているせいでトチ狂いかねない歳なのだ、と。

 人生半ばの危機か。まあ、わたしなんて、30代も後半で海外へ移住してしまったのだから、ある意味もう片足突っ込んでいると言えなくもないけれど。あくせく頑張ってきた経営コンサルタントの仕事を辞めて結婚してオーストラリアに移住して、そろそろ2年。何もかもが目新しかった日々も過ぎ、最近ふっと思うんだ。このまま、この国で…。

 ああ、また! いけない、月子、何をまた後ろ向きに考えているの。大丈夫、40歳まで後364日も残されているじゃあないの。努力次第で道は必ず開けるはずよ。

 それに現代女性は昔と違って人生を7掛けで考えるべきだと何かで読んだ記憶がある。その頼もしい論理にのっとれば、39歳は27歳ってことになるわけで、ふむふむ、ならそんなに悪くはないじゃあない。確かに、記録写真なんかでは、過酷な労働や気候に晒されつづけた女性たちの顔には深い皺が刻まれ染みが浮き、30代が40代にも50代にも見えるから、言えているんじゃあなかろうか。それに比べればわたしだって、独身時代は化粧品や衣類にお金をかけて、ひたすらオフィスにこもってUVを避けた甲斐あって、実年齢よりかなり若く見られるもの。この国じゃ20代に間違えられることさえあるくらい。だいたいこんなことで喜ぶあたり、精神年齢が若い(未熟とも言うが)証拠だと思う。社会的見地からみても「人生7掛け説」は言えていそうだ。

 じゃあ、肉体的には? 医学の進歩を考慮して何歳くらいまでを「出産適齢期」と呼ぶのだろうか? 39歳という年齢は適齢期を過ぎているのか? たぶん、いや、絶対にそうだろう。

「おめでとう、39歳」

 ルパートの声に我に返った。夫はいつの間に目覚めたのか半身を起こし、わたしを胸に引き寄せる。「サーティナイン」とわざわざ明言したところに軽い憤りを覚えたけれど、彼の方はそんなことには思いもよらないらしく、目覚めの伸びをするように唇を重ねてくる。舌を入れようとしたのは妻の誕生日と週末という2大要素から特別な朝だと、オージー的思考プログラムが作動したせいだろう。けれどわたしの脳ミソでは直ちに「36度9分」の数字が黄色く点滅し始めるんだ。10日前の排卵期なら大いに歓迎したところだけど、この期に及んで冗談じゃあない。せっかく妊娠したかもしれないのに、不必要な衝撃を与えて流れでもしたら堪らないものね。

「ああ、いいよ、君は起きなくても。バースデーガールなんだから。誕生日の朝くらい朝食はぼくがベットまで運ぶから」とルパートはのんびりガウンを羽織りカーテンを開けた。

 朝陽が寝室に降り注ぐ。5月の―といっても、ここメルボルンでは秋なのだけど―陽光がルパートの周りで飛び跳ねて、髪を明るく輝かせている。「いい天気だよ」と振り返った夫は長身で、なかなかハンサムだと思う。青い瞳には知性の輝きがあるし、薄い唇は笑うと片端が上がってお茶目になる。全身からゆったりした寛容さと品性を漂わせて、あんな味も素っ気もないTシャツを着ていても、それなりに様になってしまうのだから。

 パジャマ代わりに着たそのTシャツは、着るものに無頓着なルパートらしく、格安量販店のKマートでセールの値引率に感動して買って以来、ビクトリア州に生息するカンガルーの数くらい洗濯機と乾燥機に突っ込んだせいで、今では木綿がシースルーなみに薄くなってしまったという代物である。

 ちなみに彼はその洗濯も自分でしてしまう。洗濯に限らず、オージーの国民性なのか個人的性分か、身の回りのことは当然のように自分でする。部屋が散らかっていれば文句も言わずに片付けて、カーペットが毛羽立っていれば掃除機をかけ、食べた後は食器を洗浄機に入れてゆく。料理を余暇のお愉しみの一つに数えているせいで、週末ともなれば手の込んだ品を作ってくれる。

 彼と結婚して良かったと思う。そりゃあ女性の憧れる理想的恋人ってタイプではないけれど、妻であるわたしよりも家庭的、いい夫だ。きっといい父親になってくれるんだろう。

「で、月子、卵は? 目玉焼き、スクランブルエッグ、スパニッシュオムレツ? パーティーは昼からだからそれまでゆっくり」

 けれどパーティーと言われ、とたんにまた気が重たくなってしまった。

「パーティーって、またご両親の家に呼ばれてるの? 先週も行ったじゃない。今日は家でゆっくりしたいんだけど」

「え、でも…今日は君のバースデーパーティーなのに?」

「わたしのって…。いいわよ、わたしなら別に。もうお誕生会って年でもないし」

「なんだよ、それ」とうろたえた夫の声が、突然きっぱりした口調に変わった。

「いいや、スィーティ。ぼくの母が言っていたけれど。父も母も、君の誕生日を日本のご両親のぶんまで祝ってあげたいと、かなり前から準備してきたそうだ」

 わたしの誕生日を、あのお義母さんがねぇ…。にわかには信じ難いけど。

「とにかく、今日は双子のバースデーパーティーでもあるわけでしょう。わたしが行かなくても問題ないと思うんだけどな」

「いいや、スィーティ、母の話じゃ、姪っ子たちのパーティーはメリンダがマザーズグループの友達を呼んで別の日に計画しているそうだから。ぼくの母も言っていたけれど、今日は」

 夫が説得モードに入ってしまったので、こちらの気持ちはますます引いてしまった。また、これだ。ルパートときたら実家の行事となるとテンパってしまうんだから。

 ちなみにこの「スィーティ」って呼びかけは、その単語の甘さとは裏腹に、彼が妻の機嫌をとって自分の思い通りにしようとするときに使う防衛用語である。夫にとって家族は何より重要だから。そのファミリーイベントをすっぽかすということは、職場で今年一番の大規模プロジェクトと謳われたコンペに遅刻した罪より、選挙の投票をうっかり忘れて罰金を課せられてしまったときよりも、はるかに重罪なんだ。

 どうでもいいけど、「ぼくの母が」って、もう12回は言ったよね? ほぅら、説得にますます熱がこもってきた。ほとんどカルトの勧誘か、選挙民に清き1票を求める政治家なみの情熱と哀愁だな、これは。放っておけば何時間だってぐるぐると説得を続けそうだ。

「わかったわよ、心配しなくても行くわよ」

 とたんに彼の顔が綻ぶ。卵はどうする?なんて鼻歌混じりに聞いてくる。

 ルパート・ミラー。4歳年下の、オージー流に言うならば、マイパートナー。イギリス系の、メルボルン生まれのメルボルン育ち。離婚率40パーセントとも50パーセントともいわれるこの国で、紳士は死ぬまで妻の誕生日に温かな朝食をベッドへ運ぶ義務がある、と信じる父親と、家族の誕生日のお祝いは重役会議や政治闘争よりも優先されるべきだと公言して憚らない母親の息子。そんな両親の愛を全身全霊に浴びた結果、バースデーガールと、39歳になった妻に照れや躊躇いもなく呼びかけることのできる男性。辞書を引く気にもならないけど、「ガール」って「少女」って意味じゃあなかった、確か?

 でもそういうことは、たぶんここでは、ルパートに限った話じゃあない。この間だってカフェのウェイトレスがクレアとわたしに向かって「ガールズ、ご注文はお決まり?」とか聞いてくれたし(ああ、お世辞ではなくて自然な感じでね)。テレビの司会者もビールっ腹の一群をつかまえて「ボーイズ」なんて呼びかけていたし。この国では遠近両用眼鏡に杖の御婦人方だって「ガールズ」なんだろう。誕生日にしても何歳になろうと絶対で、それを祝うのは基本的人権の一つだと、おそらく信じられているってこと。つまり文化や慣習の違いってわけだ。

 それにしても、ほんといい天気だ。塗りたての壁のペンキが真っ青に輝いてみえるほどの秋晴れ。ペンキはこの色にして、やはり正解だったと思う。

 わたしたちは半年前に念願のマイホームを購入したものの、それで貯金を使い果たして(ああ、頭金にね、もちろんローンは残っているんだけど)、目下暇さえあれば夫婦で家の改築に励んでいる。なんとしても子どもが生まれる前に完成させたいから。ところで建築家のルパートの話では、この国は一世帯あたりの持ち家比率が世界一高いのだそうだけど。

 ルパートお手製のバースデーブレックファストを待つ間に、シャワーを浴びて、〈RUNES〉で未来を占うことにした。ルーンというのは、古代ケルトやスカンジナビアから伝わったという占術で、ルーン文字というアルファベットに似たシンボルを彫った25個の石を使って占う。去年のクリスマスにクレアから贈られて遊び半分で始めたのが、最近ではかなり真剣、ほとんど癖になってきた。

 思えば昔は占いなんてバカにしていたものだった。そんなものに時間やエネルギーを費やす暇があるなら、さっさとリサーチにかかって、データを分析して戦略を立てて実行する方がよほど理にかなっている、と。学生時代もコンサルタント時代もそれで上手くいっていた。けれど懐妊ってテーマを前に、どんな戦略が通用するっていうんだろうか? 考えあぐねた人生計画のシュミレーションが生理の出血でいともあっけなく流されてしまうたび、神秘主義に傾いてゆく自分を感じてしまうな。

 心を沈め、石の入った袋を握り締めた。クレアに言われたように神仏、宇宙、潜在意識に超意識なんて聖なるイメージに意識を集中させ質問を唱える。今日、39歳を迎えた自分にアドバイスをください、と。

 ひとしきり念じてから袋の中に右手を入れた。指先に当たるひんやりした石の感触が心地いい。大きく息を吐き一つを選ぶ。微弱な電流が流れたかのような、指先にピピッときた石を。

〈BERKANO〉だった。成長を表す石だ。解説本によれば、なになに、伝統的意味ではカバの木、豊饒信仰と関連、再生、新しい命。

 新しい命! 

 もしかして、これって、懐妊のお告げとか? それで今朝、基礎体温の値が微妙に上がっていたんだろうか? 

 妊娠!? そう思ったら、とたんに未来が薔薇色に見えてきてしまうんだから。

 

***

  

 義父母の家を訪ねれば、パーティーというより「良い子のお誕生会」が待ち受けていた。ビクトリア朝の門には、この国でお子ちゃまパーティの目印とされる風船の束が括りつけられて、無邪気な歓声が通りにまで聞こえてくる。噴水とバラ園が見事な裏庭も今日はさながらプレイグラウンドか仮設遊園地ってところ。ジャンピングキャスルって、お城の形をした巨大なトランポリンまで運び込まれて、腕白坊ややおしゃまさんたちが駆け回っているんだから。

 ぬぁぁにがわたしのパーティーなんだか! 本当に、見渡す限りの家族連れ。ここで子どものいない成人はわたしたち夫婦だけだろう。ガーデンパーティーと聞かされて、白いパンツスーツに幅広の帽子まで被ってきた自分が完全なる間抜けに思えた。このパーティーにドレスコードがあるとするなら作業着か戦闘服。涎やゲロ、もしくはトマトケチャップやチョコレートアイスクリームのこびり付いた手でいつ触られてもパニック発作を起こさないよう、誰も彼もが完全武装しているみたいだ。

 あ、でももう一人、浮いた女性が。オペラ歌手も顔負けのド派手なドレスを着て、ちょこまかと駆け回っている。

「ディア、ディア、マイディ~ア」

 ルパートの母親、ローズ・ミラーが片手をひらひらさせて飛んできた。幼いころの記憶がふっと蘇る。今気づいたけど彼女って、ディズニーの『シンデレラ』に出てきたチビで太っちょのおばさん妖精―何て言った? そう、メリーウェザーだ―に似ていない?

「ルパート、マイ・リトル・ボ~イ」

 義母はひしっと息子をかき抱くやキスの雨を浴びせかけ、今日もパワー全開だ。何が「私のちっちゃな息子」なんだか。傍らで白けるわたしをよそに夫はにこにこと笑っている。

「あぁら、月子、マイディ~ア、ハッピーバースデー!」

 彼女は振り返るや今度はわたしを引き寄せた。大げさな仕草の割に、キスは真似だけ。義母のキスマークなんてご免だけれど、結婚後1年くらいはその露骨な態度の違いに戸惑ったものだった。人種差別か移民排斥でもされているのかと思った。けれど今ならわかる。半生を子育て一筋に費やしてきた彼女は自分の子を溺愛しているだけで悪気はないのだ。たぶん。言うならば、そう、血縁差別ってところだろうか。

「ありがとう、ローズ」と頷きながらも身を引き姿勢を正して、義母との間に微妙な距離を保とうと試みる。

 それにしても、義母を「ローズ」と呼び捨てにすることには未だに少し抵抗がある。日本なら「お義母さん」と呼ぶのだろうけれど、英訳して「マザー・イン・ロー」では不自然だし、「ミセス・ミラー」だと他人行儀なうえ自分も同じ。「ミセス・ローズ」だなんて、ファーストネームに敬称はつけないし…。などと当初は戸惑ったものだった。ルパートは、相手が親だろうと上司だろうと年上だろうと敬称無しのファーストネームで呼び合うのがこの国の流儀なんだから「ローズ」でいいんだ、と笑っていたけれど、やはり気は引けてしまう。儒教的バックグラウンドに育った身には馴染み難いものがあって。

「それでマイディ~ア、あなた、いくつになったの?」

 そう義母が微笑んだとき、2年近い付き合いですっかりシステム化した体内トラブル早期発見アラーム装置が早くも唸り始めた。微笑み返しながらも心は合気道の構えを取る。

「39歳ですけど」

「そう」と、3拍分の間。そして、溜息。続き、いかにも気を取り直しました、と言わんばかりに首を振り、義母が優しげに頷く。

「でも諦めないことよ、マイディア。今から頑張れば30代出産も夢じゃないんですからね。大丈夫、来年の誕生日は喜びで迎えられるよう、私も応援していますからね」

「はあ」

「はあって。ねえ、わかるでしょう。子どもはいくつになっても産めるってもんじゃあないんですよ。うちの人の継ぎ接ぎ心臓だってこの先、何年もつことやら。だから私もね」

「母さん! それより双子はどこなのさ」

 妻の殺気を察知したルパートが、慌てて母親を遮った。夫の体内でも早期警戒システムが24時間体制で作動している。彼の、とりわけ嫁姑紛争用プログラムは優秀になりつつあるんだ。

「ああ、どこかしら? 疲れてお昼寝しちゃったかな? あの子たち、ふふっ、今日はもうご機嫌でねぇ。お利口さんだから自分たちのバースデーパーティだってわかっているのかもしれないわね。1歳になったばかりだっていうのに大したものですよ。ふふふっ、家系かしらねぇ」

 祖母バカ笑いを顔に貼り付けたまま、義母はまたもや振り返った。

「でもね月子、年のことは必要以上に気にしないのよ。国連で統計とってるかは知らないけれど、40過ぎて初産の女だって、世界にはたぶん探せば大勢いるはずですからね」

「お言葉ですが、ローズ、わたしは少しも気にしてなんていませんから!」

「あら、そうなの」と義母は、大いに気にしろとでも言いたげに肩を竦め、背を向けて歩き出した。その丸い背中に空手チョップを食らわせたい衝動を堪える。彼女ときたらいつもこうなんだから。口を開けば、孫、孫、孫。

 実はわたし、妊娠しているんです。

 そう言えたら、どんなに素晴らしいだろう。今朝の基礎体温表とルーン占いを思うに、悔しさも募る。でもこの場で懐妊宣言をする根拠が36度9分と石占いだけでは…。わかってる、どう考えても早急だってことは。

 双子の母親(ルパートの妹でもあるわけだけど)は、噴水の向こうで授乳をしていた。メリンダはユーカリの木に凭れ、ピクニックマットに両足を投げ出して、双子の頭を右手に一つ左手に一つ、ラグビーボールよろしく抱え持ち、二人同時に授乳中。

 迫力だ。初めて見たときには度肝を抜かれたものだけど、子どもが1歳児になった今ますます凄みが出てきたな。

 それでも目のやり場に困っているなんておくびにも出さず、義理の妹と挨拶を交わした。人前でTシャツの裾をたくし上げて赤ん坊にお乳を上げるのは、抱っこと同じくらい自然な行為だと言わんばかりの笑顔を振り撒いて。だって市電にも授乳シートを設けろとかいう新聞の投書を読んだばかりだったし、ここにも数人はいるかもしれない独善的フェミニストの方の注視を引いて、また日本社会に潜むゲイシャ文化について意見を求められでもしたら、面倒だから。

「あなたこそ、誕生日おめでとう」とメリンダは、こちらの頭から爪先までを一瞥してから微笑んだ。「今日はずいぶんと素敵なのねぇ。その服は東京で?」

「ええ、まあ」と曖昧に答え、双子への贈り物を押し付けた。

 わかってる、この服装では誰から見たって「どーてことないイベントに只一人、張り切ってきた女」の図だってことは。

 メリンダの方は腰まで伸びた金髪をひっ詰めて、楽なのだろう、いつも同様ジャージ姿である。良く見れば整った顔立ちをしているから、化粧してお洒落でもすれば人目を引く美人なのだろうけれど、妊娠授乳肥りから脱却できないのか、ころころママって感じ。

 メリンダと彼女の夫のトニーには、まだ20代だっていうのに、既に子どもが4人もいる。6歳のリンダと5歳のジェーン、そしてこの一卵性双生児のジェシカとバネットと、娘ばかり4人。学生結婚だって話だからおおかた「できちゃった婚」なんだろうけれど、詳しいことは知らない。プライベートな話をするほど、わたしたちは親しくない。赤ちゃんの排便状態や歯の数なんかに心を砕いてきた4児の母親と、クライアントの利益率や自分の残業手当の増減に目を尖らせてきた女、二人の会話がどう盛り上がるって言うんだろう?

「あぁ、それ、ベイビー服なの。1歳児が何を欲しがるかわからなくて。あら、ルパートは?」

 プレゼントを渡したところで、夫が消えているのに気がついた。

「ああ、兄貴ならダッドを手伝いに行ったけど」

 一瞬目眩がした。嘘でしょう、こぅんな期間限定お子様1ドルセットキャンペーンを打ち上げたマクドナルドみたいな空間に一人、置き去りにされてしまっただなんて! しかも眼前にはローズとメリンダ。わたしがミラー家で最も苦手とするペアである。こんな状況に比べれば、無口な義父と肉でも焼いていたいけど、この国でバーベキューは男性の役目ということになっている。迂闊に手伝って、日本女性のフェミニスト的立場を悪くしたくはないし。

 とにかく、子どものことを聞かれてしまう前に何か話題を探さなければ…。「無難なファミリー会話のいろは」から、そうだ、お天気の話なんかはどうだろう。

 ここメルボルンは、オーストラリア大陸東南部に位置する人口4百万人都市である。気候は日本に比べて夏は涼しく冬は温暖。なのだけど、日にも年にも変化が激しい。起きたときは夏だったのに、お昼を食べたら冬になっていたなんてことも日常茶飯事で、夏なのにコートを羽織るかと思いきや、真冬にTシャツ1枚のオージーとすれ違ったりする。衣替えで箪笥の入れ替えをするなんて、あり得ないコンセプトだと思う。かつ雨量が絶望的に乏しくて、「今年の旱魃は例年になく深刻です」なぁんてニュースを例年やっていたりする。庭の水撒きから洗車から水規制は年々厳しくなるし、お天道様の話題なら確実に9分間は愚痴で盛り上がれるはずなんだけど。

「今日は」と言いかけたときメリンダが腰を上げた。おお、縦抱きだ。右腕に一人、左腕に一人、双子は60年代に流行った抱っこちゃん人形よろしく二の腕にひっ付いている。

「ハッロー、マイベイビーズ、グランマァの方に来てくだちゃぁい。ご機嫌いかがでちゅかぁ?」

 不自然に声を裏返し、義母が一人を抱き上げた。メリンダはもう一人を(それにしても、いつにもまして見分けがつかないな)膝に乗せたまま、器用にわたしからのプレゼントを開け始める。

 綺麗に包装された箱の中から〈ベイビー・ディオール〉のワンピースが覗く。クリーム色とピンクの色違い。

 そう、ディオール。フランス直輸入のそれに、あろうことか大枚をはたいてしまったのだった。オーストラリア老舗デパートの子供服売り場に立つや、並み居るベイビー服の愛らしさに理性を失ってしまったから。トチ狂いの衝動買い。それにしても小さいってだけで堪らなく愛しい気持ちにさせられるのに、このデザインといったら。フリルひらひらフランス人形みたいな服なんて奇跡としか言いようがない。自分にそんな少女趣味があったなんて驚きだけど、本気で夢想してしまったのだった。いつかこんな服を娘に着せて―。

「ありがとう、月子。かわいいのね。でもこれ、洗濯できるのかな? 乾燥機にかけても大丈夫かしら? えっと、表示は…」

 だけどメリンダは眉を顰め、嘘でしょう、洗濯表示なんかを捲っているじゃあないの!

「やだ、表示がフランス語。えっと、あ、英語も」

 ああ、もう、こんなことなら店員に頼んで、値札を取り忘れてもらうんだった。

「ああ、メリンダ、それ、ベイビー・ディオールだから。しかもパリ直輸入の」

 ああ、いやだ、またわたしったら! メリンダの前だと必要以上に嫌味な女に成り下がってしまう。

「ディ…オール。すごいのね。そうだ、月子、私たちからもプレゼントがあるのよ。今年は家族を代表してママが選んだの。ママったら、どうしても自分が選ぶんだって張り切っちゃって。マ~ム、月子へのプレゼントは?」

「ああ、そうそう。月子、ディア、とっておきのプレゼントですよ。気に入ってもらえること請け合うわ。今取って来ましょうね」

 言うが早いが義母は孫をわたしに押し付け駆け出した。両腕にとたんにずしりと重量感。

「けっこう重いのねぇ。これ、二人も抱いてるの?」

「10キロよ。大したことないわ、毎日抱いているとね」

 そうか、1歳児の双子の母親の日常は24時間20キロの筋トレであったか。さっきまで贅肉の固まりだと思い込んでいたメリンダの二の腕が、とたんに荘厳に見えてきた。

「で、月子の方はどうしてた?」

「どうって、相変わらずよ。英語とヨーガと家の改装」

「聞いたわ、進学するんですって。MBA? 大したものね」

「そうでもない。ただMBAは昔からの、なんていうか、夢だったから。でもまだ入学先が決まったわけでもないし。まあ、これからよ」

「そう。39歳で大学生かぁ。いいわねぇ、月子は自由で。進学だって留学だって、望めば何だってできるのよねぇ。子どもがいないんだから」

 悪かったわね、いい年して子無しで。カチンときつつも微笑み返す。

「でもメリンダ、あなただって育児の手が離れたら」

「ああ、いいの、私は。この子たちがいてくれるだけで幸せだもの。嫌なこととかあってもね、子どもたちの寝顔を見ていると吹っ飛んじゃう。そんなの大したことないってそう思えてくる。こんな気持ち、月子、あなたにはわからないでしょうけれど」

 ありがとう、メリンダ、また今日も地雷を踏んでくれて。彼女と話していると、訝りたくなることが多い。嫌味か皮肉か、単に無神経なだけなのか、真意は測りかねるにしろ神経が逆撫でられてしまう。

 実はメリンダ、わたし妊娠しているの。ああ、そう言い返すことができたなら。だけど現実は言葉もなく、ただ義妹の幸福の源って存在を抱かせてもらっているんだ。

 当のベイビーは、件の寝顔ではなくて、笑っていた。何が嬉しいんだか小さな手足をばたつかせている。その笑顔を見ていたら、ふいに胸が熱くなった。タンポポの綿毛みたいな髪、マシュマロの頬、ぷっくりした手足。赤ちゃんの身体って、どうしてこんなにもやわらかいのだろうか。温かいんだろうか。どうしてわたしたちは子どもに―。

「月子、ディ~ア、お待たせ。ハッピーバースデー」

 感傷に沈みかけた心は、だけど義母の登場で吹っ飛んだ。ローズがわたしの腕から赤ちゃんを取り上げて、かわりに包みを押し付けてくる。

「さあさ、開けてちょうだいな。探すの、苦労したんですからね。メルボルン中探し回ったくらい。あぁ、だからって恐縮しなくてもいいのよ。喜んでもらえれば本望ですからね」

 プレゼント一つに恩着せがましくも急かされながら包みを開ければ、なんのことはない、本である。タイトルを和訳すれば、なになに―、『まだ産める―更年期前にできること』

 一瞬目が点になってしまった。けれどローズは横から手を伸ばし、ページを捲りつつ、いつもの調子でまくし立ててくる。

「ほら見て、マイディ~ア、素晴らしいでしょう。あなたを妊娠しやすい身体に変えるためにできる七つの習慣。第1章、食事。第2章、夫婦生活。第3章、オータナティヴ療法。ね、こんなふうに毎日の生活で実践できる体質改善法がいろいろと書かれているの」

 開いた口が塞がらないとはこのことだ。怒りと屈辱で震えそう。

「月子、ディ~ア、わたしのお友達のジェーンを覚えているかしら? あなたも一度ここで会ったと思うんだけど。実はね、彼女の息子さんもなかなか子どもに恵まれなかったんですって。やっぱり奥さんが年上でね。でもこの本に書かれていることを忠実に実践して、3か月後に妊娠したって言うじゃないの!」

「…」

「この本はね、マイディア、高齢出産を目指す女性たちのバイブル的実用書なんですって。探すの大変だったのよ。どこの本屋にも置いていなくてね。素晴らしい本だから、たぶん売り切れちゃったのね。だけどあなたの誕生日に間に合って、ほんとによかったわ」

「ちょっと、ママ。何でこんな本を選んだのよ。月子が気を悪くしてるじゃないの」

 メリンダが、わたしが切れる1秒前にローズを遮った。

「え、なぜ、月子、嬉しくないの?」

 ローズのとぼけた顔を平手で打ってしまいそうだった。このばかげた本を投げ付けてしまいそうだ。投げ捨てて、踏み付けて、焼き払ってやる。この女の頭の中はどうなっているのか!

 呪われた書を膝の上にのせ、固まっていた。あらん限りの抗議と怒りを込めて、義母を睨みつけていた。脳裏に今朝の基礎体温表とルーンが過るたび激情に駆られる。36度9分で未来は「新しい命」だったという儚いデータを元に、いっそ反撃に出て彼女たちの鼻を明かしたいって、抗いがたい衝動に。

 せっかくですけどローズ、実はわたし、妊娠しているんです。

 そう言えたら、ああ、そう言って付き返すことができたなら!

 いいえ、ダメよ、月子、こんなことで怒りに屈してしまっては。感情コントロールよ、理性の力よ、深呼吸よ、さあ!

 自分に言い聞かせて、深呼吸を繰り返していた。大丈夫、この場はクールに、そう、天気か株価か外国為替の話でもしてやり過ごしてみせるのだ。実際のところ、本当に、妊娠しているかもしれないじゃあないの。

 

 







Copyright © Ako Mak 2017

Tamago―39歳の不妊治療 2016年11月7日 発行

著者 マックあつこ 

本書の一部あるいは全部を、著作権者の承認を得ずに無断で複写、複製することは禁じられています。

© Ako Mak 2018

All copyright is reserved by Ako Mak, マックあつこ