母の夢

 

前回のブログに親の介護の話を書いたけど、そんな心配する間もなく、母は逝ってしまった。

 

あの後12月半ばに帰国して、半年ぶりの再会は衝撃的だった。骨ばって痩せ細って、変わり果てた姿の母がベッドに横たわっていた。眠っているんだかいないんだか、枕元に立った私に反応するでもなく身じろぎもせず、酸素を求めるように大きく口を開け、目を閉じていた。

 

話しかけると頷いたり首を振ったりはしたけれど、言葉は返ってこなかった。返ってきても「うん」とか「いらない」とか一言だけ。食事も受け付けないばかりか、水も飲まない。なんとか飲ませようと半身を起こそうとすると「痛いっ!」と叫ぶ。身体も動かせないような状態だったのだ。

 

案じていた事態の何倍も酷い。ホスピスにいたときの夫よりも、死の床にある病人に見えた。こんな状態で、点滴による栄養補給や痛み止めもなく、寝かせておくのはとても無理だと思った。

 

息子が救急車を呼ぼうと言うと、父は何を言っているんだ、回復に向かっているんだと言い張った。私は妹に電話をかけ言い争いになってしまったが、駆けつけてくれた。

 

その日は半年ぶりの再会なのに、父や妹とは激しい口論になってしまった。

 

夜中も母のことが心配で眠れなかった。娘と一緒に母の床に行って、隣で眠っている父を起こさないように水を飲ませようとしたけれど私の飲ませ方が悪いのか、やはり飲んでくれない。とにかく夜が明けたら医者に見せよう。他にどうすればいいのか、思いつかなかった。

 

翌日、妹と電話で消防署の救急医療相談窓口に相談したところ、救急車を呼ぶようにと言われた。そのまま母は緊急入院となった。

 

母に付き添って救急車に乗り込み、枯れ木のように瘦せ細ってしまった母をぼんやりと見ていた。救急隊員の方が慌しく母の脈を取ったり、心拍数を測ったり、点滴をつけようとしてくれていた。母は痩せすぎて機械では脈も取れず、点滴の針もなかなか刺せず…。いつ呼吸が止まってもおかしくない状態だから覚悟はしておくように、と隊員の方からは言われた。

 

目の前で起こっていることに実感がなかった。

 

コロナに苛まれる医療現場にあって受け入れ先の病院はなかなか見つからなかった。やっと隣の市の病院が承諾してくれたときにはホッとしたが、思いもよらなかった現実に再び直面したのだった。

 

このまま母に付き添うつもりでいたのに、一昨日の夜オーストラリアから入国したばかりの私は病院に入ることが許されなかったのだ。それどころかコロナの関係で、いずれにしても誰も面会はできないことになっている!?という。

 

思い返せばロックダウン下にあったオーストラリアでも同様の処置が取られていた。けれどロックダウンが解かれ2022年に入ってからはそういう規制もなくなって、病院も普通に面会できるようになっていたので日本も同様だろうと、迂闊にも思い込んでいたのだった。

 

付き添いもなく一人、病院の中に運ばれてゆく母を呆然と見送っていた。病院の駐車場で、後から車で来ることになっている妹を待っていた。

 

その間に母の診察を終えた医者が駐車場まで出てきて、病状を説明してくれた。疱瘡のうえに床擦れも酷く、点滴をしているが危ない状態だと言う。いつ呼吸が止まって心拍停止の状態になっても不思議はない状態ですから覚悟はしておいてください、と言われた。とにかく母をよろしくお願いしますとしか言えなかった。

 

その夜、夢を見た。メッセージが録音されたUSB2つ、母から妹と私に郵送されてきた。早速それを聞こうとするのだけれど、パスワードのロックが解けなくて開けない。なんとかアクセスしようとするのだけれど、結局メッセージを聞くことはできなかった。途方に暮れて、目が覚めた。

 

母には私たちに伝えたいことがたくさん、たくさんあるのだろう。

 

母の言葉を私たちはもう受け取ることができないのだろうか? もう母と話をすることは叶わないのだろうか?

 

そんな心の準備は全くしていなかったし、全然できてもいなかった。

 

それでも年末に1度、母を見ることができた。食事どころかもはや点滴さえ受け付けなくなった母はカテーテルを挿入することになったのだが、そのとき治療室からベッドで運ばれてゆく母を偶然、廊下で見かけたのだった。

 

すぐさま駆け寄ってその手を握ってあげたかったけど、伝えたいこともたくさんあったけど、外部の面会が禁じられている院内では声をかけることもできず、立ち止まって見送るのが精一杯だった。妹と二人、エレベータの中に消えてゆく母の姿を無言で見送っていた。小さな身体にたくさんの管が繋がれているのが見えた。

 

心の中ではひたすら母に呼び掛けていた。そうして、詫びていた。何もしてあげられない、耳元で励ますことさえできない。申し訳ない気持ちでいっぱいだったのだ。

 

 

年が明け、14日は娘の誕生日だった。21歳というのはオーストラリアでは大人の仲間入りをする大きな節目の誕生日なのだけど、母のことがあるのでこじんまりと祝い、眠りの底に落ちたころ妹に起こされた。

 

病院から電話があって、母の心拍が停止した、と。

 

既に日付は15日に変わっていたが、実は4日は娘の誕生日だけではなかった。奇しくもその日は幼くして亡くなった母のお兄さんと、25年前に亡くなった母のお姉さんの命日でもあったのだ。

 

母の姉が亡くなったとき、母が言っていた。個人の命日と言うのは、霊界にいるその人とこの世をつなぐ絆が強くなるというから、きっとお兄さんが姉を迎えに来てくれたのよ、と。

 

逆子だった私の娘を帝王切開で出産する日が決まったときも言ってくれたのだった。大丈夫、その日はあっちゃんのおじさんとおばさんの命日だから、きっと赤ちゃんが無事にこの世に生まれてこられるように、向こうの世界から助けてくれるよ、と。

 

その二人が、今度は、母を迎えに来てくれたのだろう。食べるどころか点滴もできず、カテーテルで命をつないでいる母を見かねて。もう十分に頑張ったから、もういいよ、そろそろ向こうへ還ろう、と。

 

けれど母は、その日は孫娘の誕生日でもあることを思い、自分の死ぬ日にしては可哀そうだと、日付が変わるのを待っていてくれたのかもしれない。母は、そういう気の遣い方をする人だったから。

 

 

母の告別式は家族葬で行われた。コロナがまだまだ猛威を奮うなか、ごく親しい身内と母を見送った。

 

心の中は、やり切れない思いでいっぱいだった。私は、せっかく母が生きているうちに帰国できたのに、何もしてあげられないまま逝かせてしまったのだった。病床の中、オーストラリアから娘が帰ってくるのを待っていたのかもしれないのに、ロクに話もできないままに別れることになってしまった。それどころかコロナ禍とはいえ、母は誰にも見送られずにたった一人で逝くことになってしまったのだ。

 

僧侶のあげるお経を聞きながら、棺の中の母に問いかけていた。私に、どうしてもらいたかったのか? 何をしてもらいたかったの?と。

 

結局、あのときに見た夢のように、母からのメッセージを受け取ることは叶わなかったわけだ。母が伝えようとした言葉を受け取れる日はもう、来ない。

 

告別式の厳かな空気のなか棺の中の母を見ているうちに、実家の母のベッドサイドに座り、その手を握っている自分の姿が浮かんできた。あの夜―

 

そのまま母の呼吸が止まってしまうんじゃないかと私がパニックを起こしていたあの夜― 母は、ただ私にそこにいて欲しかったのだ、と思った。実際もう会話をできるような状態じゃあなかったけれど、会話になろうがならなかろうが、ただ隣で話しかけてもらいたかったんだ、と。その手を握り、自分はここにいるからね、と。

 

あれが、母との最期の時間になるとわかっていたなら、絶対に傍を離れたりはしなかったのに…。

 

 

母が亡くなって3か月が過ぎたけれど、未だに母が夢枕に立ってくれたことはない。夫のときはあんなにすぐにいろいろな夢を見たのに。たくさんのメッセージが届いたのにな。まったく全く、母の夢は見ないことが不思議だった。

 

時々夢の続きを見たいなぁと思うことがある。夢見でいいから、あのとき開けなかったUSBに込められた母のメッセージを聞きたいなぁとは思うのだ。

 

© Ako Mak 2018

All copyright is reserved by Ako Mak, マックあつこ