プールのある風景

 

まずはプールを好きになろう。この年末、頭痛の種でしかなかった存在を前に、そう決意した。

 

今回は我が家のプールの話を。日本でプール付きの家というと豪邸って感じだけれど、オーストラリアでは別段珍しい話じゃない。ふつーによくある家の一つ。ここも、そもそもプールじゃなくて、小学校の学区に惹かれて選んだ家だった。

 

娘の小学校入学にあたって、日本語と日本文化を教えてくれる小学校で学ばせたいと考えたのだけど、幼稚園部から通っているモンテッソーリスクールも、学区内の公立小学校もイタリア語だった。公立の小学校は厳しい学区規定がされていて、日本語を教える学校に入学するにはお隣の学区に引っ越す必要があったのだ。ちなみに引っ越してから2年後に娘は元のモンテッソーリスクールに出戻りすることになったのだけど…。

 

もともとプールを気に入ったのは、メルボルン育ちの夫の方だった。子供のころ藁を積んだ大きな裏庭で妹や弟たちと遊んでいたという彼は、子どもが生まれると広い庭の家に住みたがっていた。一方、東京に住んでいた私の方はこっちの不便さや人口密度の薄さにうんざりしていたから、これ以上不便になるなんてあり得ない話だった。前の家のように庭なんか猫の額でも商店街や駅に近い方がむしろ好ましく、プールなどあってもなくても良かったのだった。

 

それでも引っ越した当初は、キラキラ輝く水色の水面をうっとりと眺めたものだった。ダイニングリビングルームとラウンジルームがプールに面していたので、娘を小学校に送り出し遅い朝食を取るときや、息子をお昼寝させてコーヒーで一息つくときなんかに、ふっとプールに見入っていた。僧侶や行者は湖面を見て瞑想するというけれど、プールサイドの木々をゆらゆらと反射させ揺れる水面を見ていると心が和む。窓から覗く水景色に疲れも癒されるようだった。ああ、家にプールがあるってなんて贅沢なんだろう、と。

 

だけどその美しい水面は、暫くするとビニールのプールカバーに覆われることになった。プールは、思った以上にメインテナンスが必要だったのだ。

 

前の所有者から紹介されたプールクリーナーに言われたのだ。カバーをかけて水を守らなければ、ビクトリア州の強い日差しに水が干上がってしまうし(しかも当時は酷い旱魃だった)、枯葉がプールに落ちると、濾過器とクリーピークローリィ(お掃除ロボット)で水質を維持するのが難しくなって、毎日水面を掃除しなければならなくなるから、と。ただでさえ子育てと仕事で手一杯なのにプール掃除の時間など取れるはずもなく、かといって2週間に1度の業者の訪問回数をもっと増やすなんて経済的にあり得ない話で…。

 

こうしてあっという間にキラキラ輝く水色のリフレクションは、汚れたビニールのプールカバーに取って代わられることになった。憩いの風景は、あっという間に消えてしまった。

 

それでもプールの存在に5歳の娘は大喜びだった。お姉ちゃんの興奮と熱気に巻き込まれて、1歳になった下の子も楽しそうに水遊びをした。ちょっと暖かい日が続くと、子どもたちとダディンはワイワイ大はしゃぎで水飛沫をあげた。以前の家に比べると不便になったし予算もオーバーしてしまったけれど家族が嬉しそうなので、この家にして正解だったと思ったものだ。

 

とはいえビクトリア州はキホン、寒い。前の家のリノベーションで空調設備について調べていたときに知ったのだが、1年のうち冷房を使うのは延べ日数にして一月にも満たないのに、暖房の方は1年の大半。だから戸外のプールなんて、入れる日など殆どないのだ。

 

にもかかわらず「せっかくプール付きの家に引っ越したのだから」と、夫は子どもたちとプールに入っていた。夫の実家はビーチに近く、真冬の凍える海でふつーに泳いでいたという祖父の習慣が自慢の家庭で育ったから、日本育ちの私の肌感覚からすれば「あり得ない」寒い日でも子どもたちと一緒にプールに入ろうとした。そんなことをしたら子どもたちが風邪をひいてしまうと度々口論になったものだ。

 

そのうち息子が喘息になった。水泳は喘息に良いとも聞くけれど、寒い日にプールに入ると小さな子はやはり風邪をひく。すると喘息の発作が出て、病院の救急に駆け込まなければならないことも。毎日処方箋の服用が必要になって、吸引機が手放せなくなった。

 

3歳のころ風邪をこじらせて喘息の発作を起こした息子が喘ぎながら言ったことがある。黄色いアンパンマンのパーカーを着て、洗面所の自分用の台に腰かけて、吸引機を吸ってはなんとか呼吸を続けていた息子は瞳に涙をいっぱい溜めて言ったのだ。

 

「ママ、ムウもう…ダメかもしれない…。息が…できないんだよ。もう次の息は…できないかもしれない」、と。

 

息ができないということは、幼い子にとってどれほどの恐怖だったことだろう。大丈夫だよ、できるよ、と励ましながら事前に防げなかったことが悔やまれた。

 

息子は2歳になったころからアトピー性皮膚炎にも悩まされるようになった。夏が来てちょっと暑い日が続くと、白いすべすべの肌から赤い発疹が現れる。するともう痒くて堪らなくなってしまう。医者だった夫は冷やしたり、クリームを塗ったり、濡らした包帯を巻いたりと手を尽くし、幼いながら本人も自分で氷を患部に当てたりクリームを塗ったりと頑張っていたけれど、それでも赤い発疹は広がって、ケロイド状になった。5歳の時などアトピーで救急入院になってしまったほどで・・・。プールの水はアトピー性皮膚炎には有害だから、発症したらプールには入らないようにと主治医からも言われた。

 

いつしか私はプールを目の敵にするようになっていた。

 

夫との口論もますます増えた。国際結婚なので文化的バックグラウンドや価値観の違いからいろんなことで意見と見解が合わず口論が絶えなかったのだけど、プールは夫の家族をめぐるトラブルと並んで喧嘩の元だった。

 

 

子どもたちが成長するにつれ、自然とプールに入る機会は減っていった。中学校に入ると娘も忙しくなって、お姉ちゃんが入らないとつまらないので息子の足も遠のき、プールから歓声が上がることも減っていった。稀に夫が独り、プールで泳いでいた。

 

相変わらずプールは、枯葉のこびりついたくたびれた水色のビニールカバーで覆われて、ただそこにひっそりと佇んでいた。使わないのにメインテナンスの費用ばかりが嵩むので、2週間おきに来ていたプールクリーナーの訪問を冬の間は3週間おきに減らしてもらった。

 

上の子が高校に入学したとき、夫の癌がわかった。化学療法が始まるとその副作用で彼はもう昔みたいに泳ぐことができなくなった。それでも夏になって子どもたちがプールで歓声を上げると自分も入ることもあったし、天気がいいと子どもたちに「今日はプールに入る? 入るならカバー開けてあげるよ」などと勧めていた。

 

彼の最後のハロウィーンとなった、あの日の午後もそうだった。暑い日だったのでダディンは子どもたちにプールを勧め、プールカバーを開けてあげた。後で自分も入るつもりだったのかもしれないが仕事に戻り、その直後にシドニーの医師団から最後の望みの綱だった放射性核種内用療法の失敗を知らせる電話が入ったのだ。命を更に削るだけだから直ちに止めるべきだ、と。

 

夫が腰を痛め、動けなくなったのはその翌日だった。痛みは酷くなるばかりで結局、救急に駆け込まなければならなくなって、翌週には入院することになった。私は放射性核種内用療法の副作用のせいだと思ったが、検査で背骨の破損がわかったた。夫はプールカバーを戻したときだと言っていた。厚手のビニールでできた頑丈なカバーはかなり重い。そのうえ我が家のカバーは古くなっていたので扱いが難しく、無理矢理引っ張った拍子に背骨を傷めてしてしまったらしい。癌と治療で骨も脆くなっていたんだろう。

 

そのときの骨折が入院の原因だったけど、それからはもう坂を転げ落ちるように病状は悪化していった。夫は入退院を繰り返し、癌の主治医は余命数週間、クリスマスまではもたないだろうと告げた。背中の骨折が治るのが早いか、癌の進行で命が尽きるのが早いか、そんな状況になってしまったのだった。結局3月に亡くなるまで、夫は病院と家とホスピスを出たり入ったりするような生活だった。

 

誰も入らなくなったプールに、新しいプールカバーが届いたのは、夫が亡くなってから十日後のことだった。プールカバーのせいで背骨を傷めてしまった彼は、家族の誰にもこんな思いはしてほしくないと、いつの間にか新しいカバーを注文していたのだった。

 

その日、二人がかりでプールカバーを抱えた業者が突然我が家を訪れたとき、そういえば夫が最後にホスピスに入院していたころに、もう2か月も前に注文して既に代金も払ったのにカバーは未だ届かないのか、と気にしていたことを思い出した。当時はそれどころじゃなかったからプールカバーのことなんて、すっかり忘れていた。

 

その日は偶然にも、夫のお骨を火葬場に受け取りに行くことになっていた。事前に業者から配送の連絡があったわけじゃなく、まったく突然の訪問で、夫が購入してから3か月も経っていたのだ。そうして奇しくもその日の明け方、私は夫の夢を見ていたのだった。

 

夢の中で夫はプールの向こう、裏庭に立って、嬉しそうにこちらに向かって手を振っていた。彼の背後には大きな樹が聳え立っていた。ツリーハウスだった。夫がツリーハウスの贈り物を子どもたちに届けに来たのだった。だけど彼はただにこにこと両手を振るばかりで、家の中に入ってこようとはしなかった。我が家の愛犬チャーがプールをこちらに向かって泳いでいた。溺れてしまうんじゃあないかと心配したけれど、チャーは無事にプールサイドまで泳ぎ切った。ほっと安心したとき、夫も夢も消えた。

 

目覚めるや、夫が夢枕に立ったのだと思った。鮮やかな、霊的な夢だった。その日は夫のお骨を受け取りに行くことになっていたから、それで挨拶に来てくれたのだろう、と。でも、と首を傾げたのだった。なんでツリーハウス? と。

 

その数時間後に、新しいプールカバーが届いたのだ。業者が二人がかりで巨大なプールカバーを裏庭の芝生に広げ、設置しようと作業している。その様子を見守りながら夢のことを考えずにはいられなかった。

 

家には愛犬が2匹いて、ポーは私の書斎に、夢に出てきたチャーはいつも夫と一緒にいた。きっと夫は「主人」を失くしたチャーをよろしく頼むと言いたかったんだろう。

 

そうして夢の中でツリーハウスが立っていた場所には、実際には子どもたちのキャビーハウスが建っている。下が砂場になっていて、上の家には滑り台と梯子がついていて、子どもたちも小さかったころはよく遊んでいた。キャビーハウスを買ってあげたように、夫は今も子どもたちに贈り物をしたいのだろう。ティーンネイジャーになった子どもたちには、もっと大きなツリーハウスを。日々成長してゆく子どもたちにまだまだしてあげたいことがたくさんあるのだろう。

 

でももう、彼にはそれが叶わない。それでも今朝プールカバーは、届いたのだった。夫のお骨が家に帰ってくるまさにその日に。これは偶然なんかじゃあなく、彼からのメッセージなのだと思った。 

 

自分はこれからも子どもたちを見守り続ける、と。

 

身体はお骨になっても、魂は存在し続けるし、自分はこれからも家族の一員で見守っているよと、そう伝えたかったんだろう。生死を超えて絆は続いてゆくから、と。

 

 

新品のプールカバーのお陰で、我が家のプールは輝いた。とりわけ雨が降ったときなんか真新しい水色のカバーの表面に水滴が溜まって、そのうち水面になって、綺麗な水景色が広がった。

 

だけどやっぱり、ビニールはビニールだ。そして季節は冬へと向かっていて、コロナ禍のロックダウンで家にいる時間は俄然増えたけど、相変わらずプールはそこにあるだけ。誰も使わないのに、メインテナンスの費用は掛かり続けた。古くなったのはプールカバーだけでなく、濾過器やお掃除ロボット、ヒーティングシステムも老朽化して故障した。お掃除ロボットは新しいのに買い替えて、濾過器も一部を買い替え修理しなくてはならなかった。

 

そのうえ役所から、プールの安全性に関する法改正で、今後は4年に1度プールインスペクションで安全性を証明しなければならない(!?)という通知が届いたのだった。何それ…。戸惑いながらネットや周りに聞いて調べたところ、面倒なうえに、インスペクション代やら修理代やら証明書の発行代で3000ドルくらいはかかるという。ご近所さんなど業者から6000ドルも請求されたとぼやいてた。

 

私同様、ただでさえプールのメインテナンスにうんざりしていた友達は、今やプールを潰すことも考えていると言っていた。プールの水を抜いただけでは、コンクリートにヒビが入ってもっと厄介な事態になってしまうから、いっそ埋めてしまおうかとも思うのだけど、それもコンクリートの撤去や埋め立ての費用に加えていろいろと事後処理もあって、手間も費用もかかり過ぎるから決め兼ねているのだ、と。

 

そのときは、そこまですることはないんじゃないかと思ったけれど、私にとっても、家族が泳ぐこともなく、新品とはいえビニールカバーが皮膚のように貼り付いた我が家のプールは、もはや面倒な金食い虫、頭痛の種でしかなかった。夫が亡くなって、自分一人で管理しなきゃならないことも、うんざりだった。

 

この年末もまたお掃除ロボットが壊れた。買い替えて2年と経っていないのに、先週プールクリーナーが修理したハズなのに、先日はプールエンジニアまで来たにもかかわらず、また業者を手配しなくてはならないのだ。でもこんな年末に誰が来てくれるっていうんだろう? 追加料金もかかるだろうし。でもこのまま放っておいたらまた緑色の藻が生えてしまうだろうし。まったく、いつもいつも…

 

グルグルしつつ心の底から思った。プールなんて大嫌いだ、と。役にも立たないのに手間とお金ばかりがかかる。信頼できる業者を探すのも一苦労だし…。プールがなければ、どんなに楽だっただろうか。このときばかりは本気で考えた。うちもいっそ潰してしまおうか、と。

 

元々自分はプールなど欲しくなかったのだった。そう思ったら、プールに対する不平不満や様々な否定的な思いが込み上げてきた。だいたい明後日は大晦日だというのに、なんでプールの修理のことなど考えなくてはならないんだろう。本来なら今頃は日本に一時帰国しているハズなのに…。コロナ禍とはいえこの年末も…。

 

そのうちそれはプール問題を飛び越えて、海外で暮らすこと自体への難儀さやネガティヴな思いへと繋がっていった。もう半日くらい愚痴ってしまいそうな勢いで。

 

それでも、現実には、自分はメルボルンにいるし、家にはプールがある。かといって引っ越すというのは…。プールを潰しにかかるって言うのも…。

 

思えば先月、4カ月もかけたプールインスペクションがやっと終わったところだった。安全性を脅かすものは「規則だから」と徹底的に修理させられた。例えば隣人が塀を乗り越えて我が家のプールに飛び込んで溺れてしまうかもしれないからと(マ・ジ・で・す・かっ?)塀を高くさせられたり(ちなみにお隣りは90代のおじいちゃんの一人暮らしである)、子どもがプールフェンス脇の小さなサツキによじ登りフェンスを越えてプールに入って溺れてしまうかもしれないからと(はいぃ…? その前に片足で枝が折れるわい)付近の木々を切らされたり、プールサイドに面したドアは自動で閉まらなくちゃならないからと修理させられたり…。とにかく大変だったのだ。それがやっと終わったのに…。

 

外の世界を変えるのが大変なときは、内側の世界を変えてみるしか…ない。こういうときこそ瞑想だった。

 

呼吸に意識を集中し、怒りを鎮め、嫌悪感を手放して、心の荒波がとにかく静まるのを待った。空について瞑想し、この問題について考えて、意識の変容について考えた。負から正へ、ダルマの輪を回すことを黙想した。

 

そうして決意したのだった。まずはプールを好きになろう、と。頭じゃなく、心からそう決意した。

 

そのためにまず思い切ってプールカバーは外すことにした。「プールがお荷物ではなく生活の喜びになるように、冬の間はカバーを外してもいいんじゃないか」と勧めてくれたメインテナンス会社の方がいた。ちょうど右足の平を骨折して外出も儘ならない時期だったから、窓の外に揺れる水面にどれだけ心が慰められたことか。あのときは足のせいで自分じゃ手入れができず、水に藻が生えて緑色に濁ってしまって結局止めたのだけど、幸い回復して今なら自分ですることもできるし。そう、自分で。

 

今後は、来たり来なかったりで、料金体系も曖昧なメインテナンス会社に管理を任せるのは止めて、自分でケアすることにした。毎日水面を掃除して、後はお掃除ロボットや濾過機など機械に手伝ってもらえばいい。そのためにプール機器の扱い方も学んで、水質管理も自分たちでする。幸い近所のプール会社が店頭で無料の水質チェックをしてくれるそうだから、定期的に持ち込んで必要な薬品は揃えればいい。だからまずはお掃除ロボットを修理して…。

 

あれから6週間。子どもたちも手伝ってくれるし、清掃ロボットも濾過器も順調に動いている。水に藻が張ることも濁ることもなく、プールは青く美しい水面を湛えて居る。もういつ来るかわからない業者を待つこともなく、その仕事や請求書に神経を尖らせる必要もない。少しずつではあるけれど自分たちで管理する方法を学びながらやってゆくことにして本当に良かったと思う。

 

そうして手を掛けるようになったぶん、プールが大切な存在になった。毎朝、揺れる水面を眺めながらプールサイドでコーヒーを飲むのは日々の喜びだ。晴れた日には陽光を反射させキラキラ輝く水面に、曇りの朝はちょっと沈んだ水面に、雨の日には水滴に揺れ、風が吹くと細波に揺れる。その日のエネルギーを反射させてゆらゆら揺れる水面に心を浮かせて、ゆったりと広がる贅沢を噛みしめるひと時。たとえ5分であっても大切な、貴重な時間。

 

それから水面に落ちた枯葉やゴミをプール用のネットで掬う。持ち手が私には長過ぎて扱いが難しいけれど、5分10分やっていればそれでも綺麗になる。夏場はやはり水の蒸発が早いので、プールカバーは外しっぱなしってわけにはいかないけれど。

 

まあ、何ごともMiddle Way―中道ですよね。

 

引っ越して15年。先のことはわからないながら、今はその存在に心から感謝している。

 

 

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