9月―
メルボルンは暦の上では春。街路樹や家々の庭先の蕾もほころんで、色とりどりに春めいている。
心の浮き立つ季節だけど、前回のブログで触れた先月5日の夜から始まった6回目のロックダウンはまだ続いている。メルボルンはこの間にロックダウン延べ日数200日記念さえ迎えてしまった!?んだそうな。ここに骨折で籠った期間を加えると、ああ、自分ってばずいぶんとロックダウンしているんだなぁって、妙な感慨が・・・(笑)。
とはいえ、2回目のコロナワクチン接種も無事に済んだ。2回目はワクチンハブではなく地元の病院を予約して車で行ったのだけど、注射を打ってから15分間様子見で待合室に入るより早く、打った辺りの腕がもう重痛くなってきた。あっ、これが噂に聞く、ファイザーの場合2回目の方が重いってやつねっ、帰りの運転は大丈夫だろーかっ、と身構えてしまった。
だけどその病院のマネージメントをしている友達が話しかけてきて、こんなところで会うなんて奇遇だねぇ~とか世間話をしているうちに気がつけば痛みは消えていた。運転中に痛みがぶり返すこともなく、スムーズに家路に着けた。翌日はなんとな~く身体がだるくて眠かったくらいで、さした副反応も起きなかった。
それでも1回目の接種では全く翌日には残らなかったので、やはり2回目の方が重かったんだろう。まあ、全く反応がないのも自分には今一つ効かなかったのかしら?とそれはそれで心配になるので、それなりに身体が反応してくれて良かったってところかな。子どもたちも今月半ばに1回目のファイザーワクチンを接種してもらえることになって、ひとまずほっとした。
9月に入ってからのビクトリア州知事の話では、もはや「感染者数0」を目指すのはあきらめて、今後は「コロナと生きる」、ワクチン接種の普及率に焦点を当てるのだそうだ。さしあたっての目標は9月23日までに州70%が1回目のワクチン接種を終えて、これで一部規制が緩和される。70%が2度のワクチン接種を終えた暁にはロックダウンも解除されて、「Normal」ふつーの生活に戻れる!かもしれない。
そうして80%で遂に国境も開く! と、そう信じたい。まあ、ウィルスの変異次第で状況も刻々と変わるので判然とはしないのだけれど…。
最近日本にいる高齢の両親、とりわけ母が「私もどれだけこの家で暮らせるかわからないから…」とか、「そろそろお迎えが…」とか電話口で弱気な発言をすることが多くなった。そんな話を国際電話でか細い声で呟かれると、心配心にも拍車がかかってしまう。誰もが願っていることだろうけど、ほんと~に早くコロナが収まってほしいものデス。
そんなわけで先日の父の日も、メルボルンは去年に続きロックダウンだった。ちなみに日本では6月第3週の日曜が父の日だけど、オーストラリアでは9月第1週の日曜日である。
夫が亡くなって、2回目のFather’s Day。今年は子どもたちがダディンを偲んで夕食を作ってくれた。彼の好きだった、そして自分たちでも作れそうなポテトサラダとチョコレートマッドケーキを。
子どもたちは一緒にキッチンに立ち、案外楽しそうに料理をしていた。4歳も年が離れているうえに性別も違うのに、二人はびっくりするほど仲が良い。昔から面倒見は良いんだけれど料理は苦手のお姉ちゃん、妙に凝り性で試したがりの弟。それぞれ自分の作業をマイペースに進めながらも手伝い合って、時々大笑いしている。私はそんな二人をカメラに収めたり、手伝ったり。
夫の癌がわかったとき息子は未だ小学5年生、娘は高校1年生だった。父親を亡くしたとき息子は13歳、娘は18歳・・・。自分の両親は未だに健在なので、こんなに早く父親を亡くしてしまった子どもたちをやはり不憫に思ってしまう。
夫は、ものすごぅく子煩悩な人だった。まだ声変わりもしてなかった息子や、勉強は恐ろしくできる(VCEもビクトリア州のトップエンド、結果が出るやすぐに大学から奨学金のオファーがきた!)けど、 ほとんど浮世離れしているくらいおっとりした娘。二人を残して逝かなくてはならなかったことは、どれほど心残りだったろう。辛かっただろうか。
父親を偲んでキッチンに立つ子どもたちを撮りながら心の中で夫に話しかけていた。子どもたちなら大丈夫だよ、と。そりゃあ胸の内では父親の不在を淋しがっているだろうけれど、こんなに前向きで優しい子に育っているよ。父親の分までは無理でも、私もできるだけこの子たちが笑っていられるようにこれからも支え続けてゆくからね、と。
一昨年の父の日は、彼の最後の抗癌治療となってしまった、そして初めて参加した実験的治療、放射性核種内用療法をシドニーで始めた週だった。副作用も殆どないと聞いていたけれど、あれは(あれも?)残酷な治療だった。夫はシドニーで初めての治療を終えて金曜の夜に家に戻ってきたのだけれど、まんいち子どもたちに影響が出ないようにと治療後の3日間、一緒に過ごす時間を制限されてしまったのだった。思いもよらなかった医師団からの指示だった。
ハグもできない。そんな父の日は初めてだった。それで父の日のお祝いは延期して翌週の日曜にすることにしたのだった。それが彼の最後の父の日になってしまったわけだ。
それ以前の父の日はいつも家族で遠出をしていた。車の中で食べたり歌ったり、ゲームをしたり。子どもたちがドライブの旅を喜んだから海や山へ、ビクトリア州内ではあったけど日帰りの旅をするのが我が家の習慣だった。浜辺やブッシュや雪山で砂の惑星ごっこやハリーポッター、探検隊ごっこ、子どもたちが決めたしょーもないシチュエーション遊びに家族で盛り上がったものだ。
先日息子が昔の写真を見たいと言い出した。それでいつかアルバムにまとめようと思いながらもそのままになっていたCDやSDカード、USBを引き出しから引っ張り出してきた。なんとなく開いたCDは息子が2歳、娘が6歳のものだった。あどけない二人の笑顔、泣き顔、ふざけ顔に懐かしい記憶が一気に噴き出してしまった。なんて愛しいの、可愛いの!
次に息子が手にしたSDカードは、彼が小学2年生、娘が中学1年生。幼いころは女の子と間違われることも多かった息子はまだ真ん丸のベイビーフェイスで、娘は今の面影を残しながらも思春期のぽっちゃりさんで…。夫も若かったけれど私も若かった。家族4人で京都を旅行したときの写真や、ゴールドコーストに行った写真や・・・。
「あのころは二人とも可愛かったなぁ~」と、思わず溜息が漏れてしまった。そんな私を諭すように、娘。「でもねママ、後十年経って今の私たちの写真を見たらきっとママは、ああ、あの頃の二人は可愛かったなぁって言うんだよ」
そういえば、娘は中学生のころもそんなことを言っていた。子どもたちの幼いころを思い出して可愛かった~と私が懐かしむと、「でもね、後何年か経ったとき、ママは小学3年生のムゥと中学2年生の私を思い出して、あの頃の子どもたちは可愛かったなぁとか言うんだよ、きっと。だから今の私たちを楽しんでね。小学3年生のムゥも中学2年生の私もすぐにまた大きくなっちゃうからね。時間なんてすぐに経っちゃうんだからね」、と。
高校生の時もやっぱりそんなことを言っていたっけ。本当に、そう。メェの言うとおりだよねぇ。
きっといつの日か、この父の日のことを懐かしく思い出す日が来るんだろうな。あぁ、2021年の父の日もロックダウンだったけど、子どもたちがダディンを偲んでケーキを焼いてくれて、ポテトサラダも作ってくれたんだったよなぁ。あの頃はまだ二人ともティーンネイジャーで、おふざけのお茶目さんで、可愛かったなぁ、とか。
振り返ればロックダウンも、家が洪水に見舞われたことも、階段から転げ落ちて車椅子生活をしたことさえ懐かしく思い出すんだろう。ダディンのいた最後の父の日さえ。切なさよりも、愛しく大切な思い出として。
子どもたちが2歳児と6歳児に戻ることも、ダディンと4人家族に戻ることもないけれど、だからこそ尊く、愛しい。未来から振り返れば、きっと堪らなく懐かしい思い出。1日1日をこれからも大切に過ごしたいとは思う。
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