車椅子のリトリート生活

このところ車椅子生活を強いられている。

 

どうしてそんなことになったのかといえば、

何のことはない、

2週間ほど前に階段から滑って転倒したからだ。

 

下の子を迎えに行くところだった。

ギャーッ

という母親の悲鳴と不審な物音に

「大丈夫っ!?」と

大学から帰ってきたばかりの娘が駆けて寄ってくれた。

 

「2、3分休めば大丈夫だと思う」

「冷やすっ? アイスパッチ取ってくるよっ。

えっ…!?」と娘、一瞬の沈黙。

「だからスマホ見ながら階段降りるなって言ってるのに!

ママ、バカだよっ!」

 

いや、スマホを見たのは

駆け降りる前に時間をちょっと確認しただけで…

と、言いかけたけれど、

駆け降りたのっ!? その年でっ!!

と益々ヒンシュクを買いそうだったからただ唸っていた。

 

返す言葉もなかった…。

不注意を絵にかいたような事故だった。

 

思えばこのところ

マインドフルネスからは程遠い毎日を送っていたのだ。

普段の生活はもちろん、朝の瞑想や仏行のときでさえ

意識の半分で次にすべきことを考えていたり、

脳裏でその日のスケジューリングをしていたり…。

 

とにかく、痛いのは足首と足の平、右足だった。

捻ったか、挫いたか、まさか骨までは…?

 

唸りつつ、自分の不注意さが悔やまれたけれど、

後悔先に立たず。

時間はどんどん過ぎてゆく。

 

いつもの送迎場所にぽつんと佇んでいる息子の姿が脳裏を過った。

バスとトラムを使って帰ってくるようにと伝えたくても

本人、家に携帯忘れてたし…。

 

代わりに娘に頼みたいけれど車の免許を持ってないし…。

今からバスとトラムで学校に向かったら、車だと片道10分ほどの道のりが

タイミング次第では1時間かかってしまう。

 

仕方ないからUber呼んで娘を送り出そうかと思ったとき

意を決したかのように娘が言った。

「ママ、私も付いてゆくよっ!」

 

えっ、そういう問題? 

とは思ったものの、そろりそろりと起き上がってみたら、

立てた。

 

立ち上がれるということは、折れてはいないってことだろう。

何も歩いて向かうわけじゃなし、

アクセルとブレーキを踏むだけだから、大丈夫だ。

そう判断して娘の肩を借りて車に乗り込み、いざ出陣。

 

けれど痛めたのは、右足の方だった。

免許を取って以来初めて私はアクセルとブレーキを踏むのに、

いかに力を要するか、ということを知ったのだった。

 

やっぱ無理かも…

思ったときには、時遅し、

既に渋滞の始まった主要道路に入っていて、出るに出られぬ状態に…。

 

自分の判断ミスを呪っても後の祭りである。

これはもう100%安全運転で走るしかない、と腹をくくる。

 

いやぁ、マインドフルネスな状態からは程遠~い生活を送っていた私が、

全身全霊を集中させて運転しましたよ。

神仏のご加護を頼み、つながった内なる仏陀マインドパワーを全開にして

マントラを唱えつつ。

一瞬たりとも気を抜いてはならじ、と。

 

無事に我が家に辿り着いたときには、ぐったり。

痛くて全然歩けなくなっていた。

 

最初の応急処置がどれだけ重要か、

昔受けたファーストエイド研修を思い出せば悔やまれる。

家事や仕事や「MUSTリスト」はもはや脇にのけ、

ベッドまで這ってしまった。

一晩眠れば落ち着いていることを願いつつ―

 

 

いつからだか、気がつけば

マインドフルネスからは程遠い毎日を送っていた。

 

30代前半から瞑想を始め、短くても毎朝

マインドフルネスを培うための一点集中の瞑想は欠かさなかった。

瞑想を初めて2、3度深呼吸をすれば

明瞭な意識状態に入れると自負していた時期もあったのだ。

それがこのところ瞑想自体にさえ集中できないような有様で…。

 

夫が亡くなってからシングルマザーになったぶん

毎日が以前にも増して慌しくなっていた。

「やらねばならないMUST業務」のリストが長すぎて、

朝の瞑想に使える時間自体も短くなっていた。

 

その瞑想中でさえ、やらねばならないことを、

期限と重要度順に効率的に遂行しようと

いつのまにやらスケジューリングを始めている始末・・・。

そのたびに意識を集中し、

明瞭で澄んだ心の状態にしようとはするのだけれど…。

 

あっという間に時間切れ。

次の仕事に掛からネバナラナイ時間になってしまう。

 

それも「仕事」というより「雑事」だと思ってしまえば

余計に気持ちも腐ってくる。

 

「忙しい」という字は、心を亡くすことだというけれど、

ほんとうにそうだと思う。

 

忙しなさに時にふっと心が折れそうになる。

 

瞑想中に囁く声が浮かぶことがあった。

だけど本当にあなたはそんなに忙しいの? と。

 

仏教哲学では、

忙しいと感じているのは自分の意識、心の状態であって、

絶対的な現実ではない。

物事の本質は「空」なのだ。

 

頭ではわかっているのだけれど、マインド・セットは変わらない。

Busy Mind―

いつのまにか忙しない精神状態がまた習慣化してしまったのだった。

 

 

その夜は痛みで目覚めては痛み止めを呑む、を繰り返し、

一晩眠って朝起きたら、事態は益々悪くなっていた。

 

右足の甲も裏も赤紫に腫れ上がり、

足自体が何回りか大きくなっていた。

立ち上がれたものの、

足の裏の腫れが酷く地面につけない感じである。

痛むし、歩くのにも勇気が要った。

 

幸い踵の方はそれほどでもなかったので、

右は踵でバランスを取り、

何かにつかまれば伝い歩きならできた。

このままじゃマズイだろっ、とさすがに悟る。

Uberを呼んで、娘の肩を借りて近所の病院に行った。

 

GP(オーストラリアの所謂ホームドクターです)は、

この腫れ方では間違いなく足の指が折れている、

と請け負ってくれた。

4週間はムーンブーツを履いて生活しなければならないから

松葉杖を使って歩くか、車椅子で移動して、

右足だから車の運転はできない、と。

 

ムーンブーツって、何…??

4週間もっ!? 

 

打ちひしがれる私を慰めるように彼女は言った。

「でも手術は要らないから。

大丈夫、4週間だけ安静にしていれば自然に治る怪我だから。

とにかく無理をして悪化させないようにね!」、と。

 

まずはレントゲン検査が必要だと大病院の救急に回された。

娘は大学に行かなくてはならなかったので、

友達に運転を頼んで付き添ってもらった。

 

GPの診断ミスであることを祈ったけれど、

果たして、やはり右足の指が折れていた。

まあ実際歩けないのだから、さもあらん…。

治るまではムーンブーツを着用して生活しなくてはならないんだそうで…。

 

「ムーンブーツ」というのは、

足の指の骨を折った場合に使うギプスのようなものだった。

足をしっかりと保護してくれて、自分で脱げるのだけれど、

とにかく重い。

履くと月面に降り立った宇宙飛行士みたいになってしまう。

だからムーンブーツなんだろうけど。

これを治るまでの4週間は毎日履いて、

シャワーを浴びるときとベッドで眠るとき以外は

決して脱いではいけない。

歩くときには必ず松葉杖2本を使って、

右足は曲げたまま地面に着いてはならない、と言い渡された。

4週間はムーンブーツ着用に松葉杖歩行か車椅子生活、

車の運転も禁止。

GPの初見通りだった・・・。

 

Busy Mind―忙しない心で日常生活を飛び回っていたら、

折れたのは心でなく、足の指の方だったのだ。

 

脱力しつつ、改めて痛感しましたよ。

20年以上もチベット仏教を学び、瞑想やタントラ行を続けてきたのに、

ほとんど活かせていないゾ、自分っ!

 

前週、口走ってしまった言葉がとほほほ…感満載で思い出された。

それは重要じゃないからやらない、みたいなことを言って

やるハズだったことをスルーしようとした息子に

「それでもきちんとやってちょうだい!

ジンセイなんて結局、雑事の連続なんだからねっ」、と。

 

「忙しい」と感じていたのも、

所詮は「雑事」だと思ってしまっていたのも、

自分の意識、心の状態であって、

絶対的な「現実」ではなかったのに…。

「空」を心から理解して、「菩提心」から実践していれば、

こんなことにはならなかっただろうに…。

 

そう思いつつ、今日はその「空」についても少し書き留めておきたい。

 

般若信教の「色即是空、空即是色」でもお馴染みの「空」。

仏教哲学を理解するうえで重要な思想であり、

深遠な「空」を完全に理解できれば悟りに到達できるとも言われている。

 

「空」とは、万物の本質には実体がない、ということ。

 

だから「虚無、存在しないこと」だと主張される方々がいらっしゃる。

様々な解釈があるけれど、チベット仏教ゲルク派では

「空」とは「存在自体が無である」という意味ではない。

 

ダライラマ法王も何度も明言されているけれど、

「空」は決して「虚無、Nihilism」ではない。

決して、実は何も存在していない、

存在自体が無し、Nothingであるということではないのだ。

 

そうではなくて、そう在る、

(認識者にそのとき)そう見えているようには存在していない。

万物は無常であり、

認識する者の主観によって形を変える。

絶対的な在りようで存在するわけではない、という意味なのだ、と。

 

こうなってみて思う。

実際は、たぶん自分が思い込んでいたほど忙しくはなかった。

現実的にどれだけやることがあるかということ以上に、

習慣化してしまった、

いつもせかせかと慌しくてどこか焦っている精神の状態の方が

問題だったのだ。

だいたい自分のやるべき仕事を雑事だなどと思ってしまっていたから

注意も散漫になって、粗くいい加減な気持ちで動いていたんだろうナ。

 

ラマ・ゾパ・リンボシェも、説いていらしたではないか。

どんな仕事もあなたを悟りへと導く行だと考え

菩提心から取り組むのなら、

どんな仕事も有意義な喜びとなる、と。

 

ああ、「雑事」ではなく、

一つ一つを「里の行」だと思っていれば良かった。

これからは雑事は雑な念で雑にしてしまった仕事だと認識しよう。

 

 

その翌日は誕生日だった。

誕生日の予定も仕事も、詰まっていたいろんな予定をキャンセルした。

階段を滑り落ちて以来キャンセル三昧だ。

 

子供たちはもちろん、周囲の方々にも迷惑をおかけしてしまった。

それ以上にたくさんの人たちに助けてもらった。

今も助けてもらっている。

ほんと~うに有難いことだと思う。

 

こうなってしまった以上、今は

マインドフルネスを取り戻し、習慣化するための

4週間のリトリートだと思って生活している。

 

だいたい今やコーヒーを入れるのも、

トイレに行くのでさえ

意識を集中させて行わなければならないのだから。

 

「また転んで、更に怪我するなんて冗談じゃないからねっ!

そんなことになったらもう知らないからっ!」

娘からも厳し~く言われているし。

毎日がマインドフルネスの実践デス。

 

幸い、期限は見えているのだから。

あのままBusy Mindが増長して

大きな事故など取り返しのつかないことになる前に

こういう機会が持てて良かったとも思う。

 

夫が病気になって去年亡くなって、

コロナ禍にもまれて、

家が家電洪水でその修理も大変だったし、

2年以上も日本に帰っていないし、両親にも会っていないし…。

 

思えば、かなり疲れていたので、

立ち止まって休養する良い機会なのかもしれないな~。

 

 

 

最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

 

 

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