冒頭サンプル章読み


 

インスタント・ニルヴァーナ 上巻

 

▶冒頭サンプル章

 

▶Kindle無料サンプル

インスタント・ニルヴァーナ 下巻

 

▶冒頭サンプル章

 

▶Kindle無料サンプル



 

 

インスタント・ニルヴァーナ

中巻

 

 

マックあつこ

 

 

 

▶ Kindle無料サンプル

 


目次

 

(1)魂のセラピスト

(2)カルトSOSへの依頼

(3)VN伝道

(4)ミッションLS

(5)魂の昇進

(6)救出カウンセリング協力者たち

(7)DFの陰謀

(8)聖なるノルマ

(9)リボーン

(10)コズミック・セックス

(11)教祖対決

(12)カルマの浄化

(13)ホーリー・ハンド・キャンペーン

(14)逃避

(15)救出カウンセラーの過去

(16)マインドコントロールの現実

(17)信教の自由を守る会

(18)再会

(19)決断

(20)ニルヴァーナへ

後書き

参考文献

著者紹介

 



(1)

魂のセラピスト

 

1999年7月6日12時4分―

 東横線代官山駅の改札口を抜け、春日南はコンタクト・セラピー・クリニックへと通い慣れた道を走った。弾む息より大きく心が躍る。

 遂に、こうの優魅ビューティー・クリニック原宿店がコンタクト・セラピー・クリニックのパンフレットを店頭に置くことを承諾してくれたのだった。足繁く通った成果がやっと実ったのだ! エステティック・サロンに通う暇と金のある客こそ、コンタクトの理想的ターゲット層と言えた。渋谷店や新宿店、他の店舗が取り扱ってくれるのも時間の問題だろう。

 ニルヴァーナのミッションにまた一歩近づいた!

 興奮を押さえ切れずアタッシュケースを抱き締めた。パンフレットを捌いたぶんだけケースは軽く、そのぶん肩の荷も下りたような気がする。

 西暦2007年、破滅の日が来る前にHC革命を成し遂げて、地球を救う。ガイアに地上天国ニルヴァーナを築くのだ!

 緩い坂道も全速力で駆け上がれば、白いタイル張りのビルが見えてくる。

 12時9分―

 コンタクト・セラピー・クリニックのロビーでは、ショパンのピアノ協奏曲をBGMに漆黒の丸テーブルを囲んで、セラピーを待つ女性たちが談笑している。ここは、外の茹だるような蒸し暑さとは別世界だった。

 オラクル2007。彼女らは未来に迫りつつある本当の危機を未だ知らない。知らないからこそ、夫の浮気や子供のお受験などという些細な問題で呑気に悩んでいられるのだ。無知は現世的幸福の絶対要因ではあるけれど、同時に無知は罪悪だと思う。それでも彼女たちがこのロビーに、覚醒の扉にまで辿りつけたことを祝福するべきなのだろう。

 南は盲目のプチ・ブルの群に目礼し、受付嬢に〈魂の印〉を送ってからロビーを通り抜け事務所へと急いだ。〈魂の印〉とは、胸の前でふわりと合わせた両の掌を相手の方に微かに送る、カジュアルな印である。

「ニルヴァーナ」

 今度は〈宇宙の印〉を組み、奥のデスクでコンピュータ端末を睨んでいるコーディネーターの林田芙美子に駆け寄った。〈宇宙の印〉とは、「無限大」を意味する輪っかにして組んだ両手を胸の真ん中にそっと押し当てる、儀式や目上のメンバーに対して使うフォーマルな印である。

 そこは、かつて桜久美子の席だった。桜はAZΩTh最後の夜に倒れて以来、姿を消してしまった。あのときは南はもちろん、スタッフ全員がコンタクトの要を失って混乱したものだった。けれど直にそのポストを桜に劣らぬ優れたセラピスト、林田芙美子が引き継いだのだった。林田から、桜はHC革命のため極秘使命を担って、ある場所に飛んだのだと知らされた。

 あのころ林田には随分と助けられた。彼女の支えがあればこそ桜の不在を乗り越え、半年間の集中特訓コースを遣り遂げることができたのだった。その後、半年間のインターン期間を終了できたのも、卒業後準セラピストとしてコンタクトで働けるようになったのも、一月前に無事正式採用されたのも、林田のお陰である。

 南は林田に早速、午前中の成果を報告する。ささやかなミッション達成とはいえ声が弾んでしまうのを抑え切れない。

「こうの優魅ビューティー・クリニックって言ったら業界でも大手じゃない! おめでとう、春日さん」

 心底嬉しそうに、林田は両手で南の手をぎゅっと握ってくる。

 おめでとう、春日さん!

 ふと桜が重なりハッとした。

 林田は、その人柄も口調も仕草も外見さえも桜に似ている。確信に満ちた口調、誠意溢れる仕草、励まし方までそっくりだ。時々南は、今も桜がここにいるような気がしてしまう。

 その困難な使命を完遂次第、戻ってくると林田から聞いたけど、桜は今どこにいるのだろうか? こうしてセラピストとして活躍する自分の姿を桜に見てもらいたいと、何度思ったことだろう。

 ニルヴァーナの〈Re―BORN〉セレモニー、セラピスト養成講座の卒業式、コンタクトのセラピスト就任式。南は、桜が自分を祝うために任務地からひょいと戻ってくれるような気がしていた。極秘使命ともなれば、そんな生易しいものではないのだろうけれども。

「春日さん、あなたは優秀なスタッフだわ。メサィアも、私も感心しているのよ。今日もここに素晴らしい成果を記録できるわね」

 林田がノートを差し出した。南の『NIRVANAアファメーション』ノートである。毎日ここにその日のミッションと1日の成果を書き留めて、翌朝林田に提出するのが日課となっている。

「それからこれ、先月分のお給料。おめでとう、初月給ね」

「頂いていいんですか…」

「ご苦労さまでした。春日さんもご存じでしょうけど、ウチは銀行振込じゃなくて現金支給なの。お金は様々な人の手に渡る過程でどうしても低い波動にさらされてしまうから。とりわけ紙幣にはDFの邪悪な波動が宿ってしまう。これはメサィアが不浄な波動を浄化してくださった紙幣です。これからも頑張ってね。期待してます。ニルヴァーナ」

「ニルヴァーナ」目礼し、自分のデスクに戻る。

 セラピーで初めて稼いだお金である。興奮で指先を震わせ南は茶封筒を開けた。万札が、4枚。

 4万円だけ…。思わず肩を落としそうになり、慌てて自分を戒めた。

 自分は、お金のためにセラピストになったわけじゃない。人々を救うためなのだ。そのうえ準セラピストに毛が生えた程度では学費を払ってもおかしくないのに、給料に不満を抱くなど、どうかしている。まずは未熟な自分のことを信頼して、第一線でバリバリと働かせてくれる林田とコンタクトに感謝して、その期待に応えるのが当然ではないのか。何よりこれは仕事や職業の枠を超えた聖なるミッションなのだから。

 ふと給料明細書が入っていないことに気がついた。入れ忘れたのだろうか?林田を窺うが、尋ねるのは控えた。小さなことに拘る霊的に未成熟な人間だと思われたくはなかった。

 ニルヴァーナ フォ エヴリバディ、パワー ツー ニルヴァーナ

 マントラを唱え、内なる自己を清めてから仕事に取り掛かる。

 12時58分―

 14時から南が主任セラピストを務める前世セラピーのグループセミナーが予定されている。後30分程でスタッフが打ち合わせに来てしまう。慌ててセミナーの準備に掛かった。まずは参加者の情報を集めなければ。

 顧客情報が収められた戸棚の鍵を林田から借り、参加者リストを確認しながらクライアントのファイルを抜き取ってゆく。棚のファイルは氏名毎にあいうえお順で整理されている。コンタクトでは個人情報のDF側への漏洩を防ぐため、クライアントに関する情報はすべてコンピュータ管理ではなく書類で保存していた。

 参加者は全部で7人。今回初めて参加するクライアントが3人もいる。ファイルが薄いから一目でわかった。初診のときに記入してもらう新規顧客管理情報用紙『クライアント・ノート』が1枚入っているだけだから。かつて自分も記入したその用紙にざっと目を通してゆく。氏名、住所、電話番号、生年月日、職業、それらを素早く頭に入れてゆく。最後の質問〈現在の心理的諸問題〉には特に注意を払った。

 残り四つのファイルにも急いで目を通す。こちらは『クライアント・ノート』に加え、セラピストがセッションの度毎に記入する『セラピー・レコード』が延々と続くため、かなり分厚い。

 赤字で「AZTΩhへ!」とメモの張られたファイルに目が行った。将来ともにニルヴァーナの使命を担うことになるかもしれない重要な人物である。〈菊菜里佳〉のファイルは注意深く読んだ。

『セラピー・レコード』から彼女が「都内の女子大生」であること、「慢性的不安+孤独感、疎外感による鬱状態、躁鬱の気あり」の精神状態であることが読み取れる。具体的な悩みは失恋、サークル仲間との人間関係、将来に対する漠然とした不安。

 最後のページに「父、菊菜謙三、中野に4階建てマンション、代々木に8階建てマンションを所有」と記されていた。なるほど、これならセラピストがAZTΩhに押すわけである。

 人生に偶然はない、すべてが必然である。根源的宇宙真理の書『NIRVANA SUTRA』にもそう記されている。

 菊菜が資産家の娘に生まれたことも、彼女のファイルが今自分の手元にあることも、決して偶然などではないのだ。彼女の魂はニルヴァーナに経済的援助をすべく裕福な家庭を選んで生まれ、今まさに使命を実現しようと動き出した霊性の高い魂なのだ。自分の使命は、魂が中間世で決めたミッションを菊菜の自意識に思い出させること。

 すぐさま『NIRVANAアファメーション』ノートを広げ、〈今日の使命〉欄に「菊菜里佳をAZΩThに送り出す!」と書き記した。それから〈今日の達成〉欄には「こうの優魅ビューティー・クリニックPR戦略の成功」と記した。

 魂の底から達成感が湧き上がってくる。必ず次なるミッションも成功させると心に誓う。

 コンタクトのセラピストとして働く今、AZΩThに参加することがいかに難しく光栄なことか、肌で感じていた。それは霊的レベルの高い優秀な人間にしか許されない。自分はその難関を突破して、宇宙意識に選ばれたメンバーなのだ。

「春日さん、3番に森脇幹部からお電話が入ってます」

 スタッフに呼ばれ受話器を取る。

「ニルヴァーナ、調子はどうですか?」と、今では聞き慣れた低い声。

「ニルヴァーナ、お陰様で順調です」

「特別に用事ってわけじゃないんだけど、その…何か困っていることは、ないかな?」

 吹き出しそうになって、慌てて声を引き締めた。森脇は確か一昨日も同じことを聞いてきた。

「いえ、特に。ありがとうございます」

「失礼しまぁす。春日さんは…」

 色とりどりの服を着た3人のインターン生がぞろぞろと現れた。

「森脇幹部、実は私、14時からセミナーで。その打ち合わせが入っていまして」

「ああ失敬、邪魔しちゃったみたいだね。じゃあ、セミナー頑張ってください。ニルヴァーナ」

「ニルヴァーナ! 全力で臨みます」

 受話器を置き、心がほわほわと浮き立った。森脇は、なぜか頻繁に電話を掛けてきては気遣ってくれる。初めてここで会った日の惨めな自分を覚えていて同情しているだけなのかもしれないけれど。いや、もしかすると、自分のセラピストとしての能力を危ぶんで…?

 13時31分―

 そんなことより、今はセミナーの成功である。

 南はファイルの束を手に3人を応接セットに座らせた。3人ともニルヴァーナのメンバーで、コンタクト・セラピスト養成講座のインターン生である。まず自己紹介をしてから、セミナーの参加者状況と進行内容を説明した。

「と言うわけで、このセッションには初めての参加者が3人います。そこであなた方にはクライアント・セラピストをお願いしますね」

「クライアント・セラピストって、何だっけ?」と紺色のワンピースを着た女性が隣を見遣る。

「クライアントを装ってセミナーに参加して、担当セラピストの進行を助ける、ほら、サクラ・セラピーよ。忘れちゃったの?」と、黄緑色のパンツスーツを着た女性が囁き返す。

「そうです。初めての方は、どうしても警戒心や猜疑心が強くなってしまう。そこであなた方がセラピーに反応することで、彼らも催眠療法の波に乗り易くなるんです。集団心理作用で治療効果も俄然高まる。これもセラピストの大切な役割です。思い出した?」と南は3人を交互に見遣る。

「今回のテーマは、〈孤独〉です。参加者全員が孤独感に苛まれて、鬱状態に陥っているの。まず最近孤独を感じた記憶に焦点を当てて、そのときの状況を詳しく思い出してもらいます。それから前世で同じような気持ちを抱いた場面へと進み、その原因となった出来事へ記憶を遡ってゆく」

「孤独か。じゃあ私たちは、前世で孤独だった記憶を思い出せばいいんですね。モンゴルの騎馬民族だったとき仲間から逸れちゃった記憶とか?」と黄緑色が小首を傾げれば、

「そして大袈裟に騒ぐのよ。治療効果を高めるには派手に演技する方がいいんですよね?」と紺色のワンピースが身を乗り出してくる。

 にっこりと頷いてみせた。

 インターン・セラピスト特有の一途な瞳が眩しかった。自分も去年までその一人だったのに、今では随分と昔のことのような気がする。

「孤独かぁ。私も昔は、孤独だったなぁ。そのセラピー、クライアントとして受けてみたいかも」赤いTシャツの女性がぼそりと呟く。

 今度は、笑うことができなかった。

 セラピストをしていると、慢性的孤独感を訴える人の多さに驚くことが多い。サンフランシスコ州立大学の哲学教授は、アメリカ人のほぼ全員が根本的に自分は孤独だと感じているのに対して、アフリカには孤独を表す言葉も概念さえも持たない民族があると書いていた。孤独は、やはり先進国病なのだろうか? 

『NIRVANA SUTRA』では、大いなる宇宙の源、コズミックソウルから切り離されたとき、人は孤独に陥ると説かれる。クンダリニー覚醒こそがそこから逃れる唯一の道なのだ。

「あなたは今も孤独なの?」

 南が尋ねると、赤いTシャツの女性は一瞬きょとんとした後に微笑んだ。

「まさか。だって私はニルヴァーナに、光の家族に出会えたんですよ。今ではメサィアとコズミックソウルと繋がっていますから」

 全く南も同じ気持ちだった。

「さあ、会場は205よ。必ず成功させましょう。ニルヴァーナ」

「ニルヴァーナ」口々に唱え、3人は〈魂の印〉を組み出て行った。

 13時56分―

 クライアントのファイルを棚に戻し、鍵を林田に返してから、自分も準備を整える。セミナーの後、菊菜と個人的に話そうとAZΩThのちらしをバインダーに滑り込ませた。

「ねえ、聞いた、桜さんの話?」

 ドアのところで、セミナーから戻って来たセラピストの一群と擦れ違った。桜の名に南は思わず足を止め、耳を欹てる。

 桜が、遂に使命を全うして戻ってくるのだろうか!

「さっき呉林さんから聞いたんだけど、桜さん、ホームレスになっちゃったんだってよ! ガイアイ支部の子が、六本木を薄汚い格好でふらふら歩いてる桜さん、見たんだって」

 心臓が口から飛び出しそうになる。

「あら、でも桜幹部なら極秘使命で…」

「それが今年に入って、忽然と消えちゃったって。結局DFの波動に捉っちゃったらしいって、宮下幹部がガイアイの子に」

「あ、あたしもそれ聞いた。で、おかしくなっちゃって精神病院に」

「なんかサラ金地獄にまでハマって、発狂しちゃったって話?」

 手にしたバインダーや筆記用具が滑り落ちた。メタルの筆箱が異様な音を立ててリノリウムの床に散らばった。額から冷たい汗が噴き出して、床の桝目が回り出す。

 まさか。桜が…

 吐きそうだ。混乱の余り闇の波動に捉りそうで、南は蹲ったままポケットからパワー・ストーンを取り出した。

 桜から貰った赤い小石。セロントを擦り、宇宙の光を吸い込み、マントラを唱える。ニルヴァーナ フォ エヴリバディ、パワー ツー ニルヴァーナ。

「どうしたの、春日さん? ヤだ、真っ青」

 腕を掴まれ顔を上げれば、ともにAZTΩhを終えた同期、戸田瞳のふっくらした顔が心配そうにこちらを覗き込んでいた。

「春日さん、これからセミナーでしょう? 大丈夫? 代わってあげようか?」

 戸田は床に散乱したバインダーや筆記用具を拾い上げながら聞いてくる。

「ありがとう。ちょっと貧血かも…。でももう大丈夫だから」

「本当に? ならいいけど」

 ふっくらとした手で背中を擦られるうち動悸や吐き気も収まってきた。南は頷き、立ち上がる。

「大丈夫?」「頑張ってね!」「しっかりっ!」「ニルヴァーナ!」

 いつの間にか周りに人が集まっていた。温かい声援を受け、セミナールーム205へと急ぐ。

 ネガティヴな感情に、DFの闇の波動に捕まるな! 今はセミナーの成功のことだけを考えろ!

 14時4分―

 4分間も時間を浪費してしまった。

 オラクル2007。こうしている間にも西暦2007年は、地球の危機は刻々と迫り来ているというのに。

 セロントを握り締め、深呼吸を繰り返した。

 

* * *

 

 あのコなら、大丈夫だ。菊菜里佳は必ずAZΩThに行く。そして真理を掴み取れるだろう。また一人、魂のメンバーが増える!

 17時51分―

 南は駒沢通りを自転車で走り抜けてゆく。代官山から恵比寿駅を過ぎ、渋谷橋を抜け、人の波を縫いながら坂の多い道を高揚感に任せペダルを漕ぐ。小さなパン屋の角を左に折れ細い道を上れば、2階建て木造モルタルのアパートが見えてくる。

 自由が丘のマンションから渋谷区東のここに移って、そろそろ1年半になろうか。家賃が安いのと、自転車通勤ができるのが魅力である。

 18時6分―

 アパートに滑り込んだときには汗だくだった。自転車を鉄柱にチェーンで留め、外階段を駆け上がる。安普請のうえ老朽化しているので、薄汚れた階段を1段上がるごとみしみしっと壊れそうな音を立ててアパート全体が軋んだ。

 201号室。合板のドアを開ければ、狭い三和土に葵沙紀の黒いローファーがあった。昨夜も徹夜したのだろう彼女を起こさないようにそろそろと靴を脱ぐ。けれど襖の向こうから沙紀の寝惚けた声。

「ニルヴァーナ。お帰り、おねえちゃん」

「ニルヴァーナ。ごめん、起こしちゃった?」

「どうせもう時間だから」と沙紀はパジャマ姿で起き出してくる。

 おねぇちゃん、と沙紀が自分を呼ぶようになったのはいつころからだっただろうか? ここで一緒に暮らし始めて、彼女がふざけて口にしたのが切っ掛けだった。そう呼ばれるたび南は愛美を失った淋しさが癒されるような気がした。いや、冗談などではない。彼女は真に〈魂の妹、光の家族〉の一員なのだ。

「じゃあ、TEの用意でもするわ。沙紀も食べるでしょう?」

「ニルヴァーナ! もうお腹ぺこぺこ」

 18時18分―

 19時にはここを出なければならない。バッグを置くや小型冷蔵庫の中を覗き込む。

「時間ないから、素麺でいいかな?」

「ソーメン、大好き」

 と、沙紀は布団を押入れに突っ込んでから壁に立てた家具調炬燵を広げた。二人で使う6畳の部屋を有効活用するために、ベッドも止めて和風に替えたのだった。

 葵沙紀が田園調布の実家からこの小狭いアパートに移って半年になる。沙紀とはAZΩTh研修の後、ニルヴァーナの〈Re―BORN〉セレモニーで去年の春に一度会ったきりだったが、今年の3月、突然彼女がアパートに訪ねて来たのだった。

「南さん、一緒に暮らしてもいい?」

 突然の話に戸惑ったものの、その夜のうちに承諾してしまった。

 6畳の部屋に4畳半の台所、風呂とトイレが付いただけのこのアパートで二人暮らしは狭過ぎるかとも思ったけれど、沙紀と一緒に暮らすこと自体への抵抗は全くなかった。家賃が半分で済むことも嬉しかったし、彼女が両親、とりわけ義父から離れたがっていたことも知っていた。何よりも彼女は〈光の家族〉の一員なのだ。

 18時23分―

 南は台所に立ち、㈱ガイアイ食品の素麺を茹で始めた。アルカヘスト水で麺汁を作り、ガイアイ食品で買った無農薬野菜を刻む。

 昔は外食かコンビニのお弁当ばかりで自炊などしたこともなかったけれど、今は精神がいかに肉体に影響を及ぼすか知っているので、ガイアイ自然食レストランの弁当をコンタクトの事務所で食べる以外は自分で作る。体と心と魂の浄化のため、今では完全に菜食であるが、ガイアイ食品のものに限って乳製品も食べる。乳製品や卵など搾取される家畜の苦痛がネガティヴな波動として残ってしまうような食品は、〈癒しの浄化〉がされていることが重要だった。

「あんな男、死んじゃえばいいんだ…」

 あの夜、沙紀は大きな瞳にはっきりと憎悪を浮かべ薄い唇を噛み締めていた。

 沙紀はAZΩThの後、すぐさま家を出ようとしたそうだ。けれど両親が親権侵害を理由にニルヴァーナを訴え兼ねないと懸念した森脇に説得され、思い留まった。自分の部屋に内鍵を四つも付けて、義父の性的虐待に脅えながらもニルヴァーナの活動に打ち込むことで、卒業までの1年数ヶ月間を生き抜いたと言っていた。

「あたし今週で家出んの。やっとだよ。親はアメリカ留学するって思ってるけど。学費や航空費、生活費とかもうかなり巻き上げてやったんだ。これからも搾り取るだけ搾り取ってやる」

「そんな嘘、バレない?」

 あのとき南は本気で心配したものだった。

「全然。だってこれ、宇宙の計画だもん。それに手続きの方も完璧処理したし。昔から卒業したらMITって騒いでたから、誰も怪しまなかったし。あいつら親権放棄してるってくらい超放任だし。バレルってこと絶対ないよ。でも万一のときは、あいつがあたしに何してたかバラすって脅す。

 ヤだ、そんな顔しないで。大丈夫だよ。あいつらをDFの地獄から救ってやることも今世あたしのミッションだって、メサィアが仰ったの。だからあいつらの金、ニルヴァーナの使命に使って、彼らのカルマ浄化してやってるんだ。ほんと、孝行娘」

 そう言ってあの夜、沙紀は微笑んだ。

「うわぁ、ストリート・アズ! 何これ、超懐かしい」

 沙紀の黄色い声に、素麺を茹でていた鍋をひっくり返しそうになる。

「きゃはは。自分らしさ発見マガジンだって。これもうだいぶ前に廃刊になったんだよね。うわぁ、こんなに。おねぇちゃん、愛読者だったんだ。特集シゴトもコイも私流欲張り宣言! うっきゃあ、超ダサ。そういえば私、これ見てコンタクト行ったんだよ」

 慌てて部屋に駆け込むと、沙紀が押入れの前に屈み込みページを捲っていた。思わず覗き込めば、ファッション、ホリデー、レストランやナイトクラブ情報、映画レビュー、能天気なゴミで紙面は埋め尽くされていた。後悔と羞恥心、罪悪感に身が竦む。女性の生き方提唱を謳ったページが視界に飛び込むや堪り兼ね、南は沙紀の手から雑誌をもぎ取って押入れの奥に投げ込んだ。

「えー、ひどぉい、見てたのに…」

 当時はキャリアウーマンの幻想に溺れて見えなかったけれど、『月刊ストリートAZ』は大衆を真理に盲目化させ、間抜けな羊状態にするDFのプロパガンダだった。自分は余りにも霊的に無知であったため、それと気づかないまま人々の覚醒を妨げ、社会悪を蔓延させていたのだ。DFの陰謀に手を貸していたのだった。コンタクトの取材がなければ今頃は堕落し切って、ホームレスに落ちていたかもしれない。

「だってこの雑誌は、その…DFの波動で汚れているもの。沙紀だって突然、超なんとかなんて昔の言い方始めて」

「だったら捨てちゃえばいいじゃん」唇を尖らせ沙紀がぼやく。

 ドキリとした。

「あっ、おねぇちゃん、鍋、噴いてるよ!」

 慌てて台所に戻りガスの火を止めた。ドクッ、ドクッ、心臓が波打っている。

 どうして自分は『月刊ストリートAZ』を捨ててしまわないのだろうか? 

 菜箸をもつ手が震えた。混乱は霊的成長を妨げる悪い兆候である。

 ニルヴァーナ、ニルヴァーナ、ニルヴァーナ― 水道の栓を勢い良く捻り、マントラを唱える。ジャージャー、茹で過ぎた素麺を冷やしながら自分の頭も冷やされ清められてゆくと念じた。

「できたよぉ」

 努めて明い声を上げ、素麺を食卓に運ぶ。今ではこの炬燵が、沙紀のパソコンに占領されてしまった台所の小さなダイニングテーブルに代わって、食卓兼南のデスクとなっている。

「おいしそう、ニルヴァーナ!」

 18時38分―

 久しぶりに沙紀と向かい合ってTEに入った。

 ニルヴァーナ、ニルヴァーナ、ニルヴァーナ。〈魂の印〉を組み、十分に念じてから箸を取る。素麺の持つ根源的宇宙エネルギーが一噛みごと体内に染み渡ってゆくとイメージしながら黙々と食べた。

「ニルヴァーナ」箸を置き、沙紀がTEを終えるのを待ってから話し掛ける。

「1週間ぶりかな、こうして沙紀と一緒にTE取るの。忙しい? 沙紀は今、ガイアイのどこ?」

「先月からはガイアイ・コミュニケーション。今年の頭にガイアイから独立したパソコン関係の会社で、ピラミッドビルの11階に入ってんの。おねえちゃん、知らない?」

「ガイアイは組織が複雑だから」

「なんか今度、ウチで『ニルヴァーナ・ファイターズ』ってゲーム出すみたいなんだ。あたしもチーム入りたいって森脇幹部に頼んだのに、君はそこまで霊的に成熟してないって。ヤなひとだよねぇ、森脇幹部って」

 沙紀が子供みたいにぷっと頬を膨らませたので、南は思わず吹き出してしまった。

「別に森脇幹部、意地悪で言ってるわけじゃないでしょう。成長して魂のレベルを上げればいいって話よ。沙紀なら、やれる。絶対に大丈夫」

 時計を見遣れば既に18時48分だ。

「沙紀、私バイトに行かなくちゃ。後片付けお願いね」

 さっと化粧を直し、赤いサマードレスに着替える。バタバタと身支度を整えながらも電話のベルに、反射的に受話器を取ってしまった。

「みいちゃん、良かった、いたのね。一昨日伝言入れたのに掛け直してくれないんだもの。お母さん機械とお喋りするの苦手なのに」

「やだ、お母さん。私、今出るとこなの。バイト遅れちゃうから」

「バイトって。あなたセラピストになったんじゃなかったの!」

 思わず舌打ちしてしまった。アルバイトのことを母に話す気など毛頭なかったのに。

「そうよ、セラピストよ。でも新米だから食べていけるほどの稼ぎはないの」

「そんな…。アルバイトするくらいなら家に帰ってらっしゃい!」

「またその話。いい加減にしてよ。この大切な時期に、そんな」

「大切なときだから言っているの。約束したでしょう。学費を貸したとき、実家から学校に通うって。それなのに勝手に引越して」

 思わず溜息が出た。なんと説明すればわかってもらえるのだろう?

「みいちゃん。あなたが和幸さんのことや仕事のことで辛かったこと、お母さん、良ぉくわかっているつもりよ。でもね、辛いからって、いつまでも逃げていちゃダメなの」

「逃げてるって、私が?」

 余りのことに呆気に取られ、受話器を落としそうになる。

「帰ってらっしゃい。家でゆっくり休養して、再出発するの。お母さん、石にしがみついてでもお見合いの口、探してきてあげるから」

「お見合いって、止めてよ! どうせお母さんに話しても到底理解できないと思って黙ってたけど、もうこの際はっきり言っておくね」

 もう限界だった。今まで両親のことを想って黙っていたけれど、そろそろはっきりさせなくてはならない時期なのだ。南は腹を括って話し始めた。

「お母さん、私は遂に、中間世で立てたカルマの台本を思い出したの。真理に目覚めた。だからこそエゴを捨て、現世を超えて、天命を全うすべくこうして闘っているの。それを逃げてるだなんて冗談じゃないわ。ねえ、お母さん、気を落ち着けて聞いてほしいの。西暦2007年に、人類は滅亡してしまうかもしれない」

「えっ?」

「とにかく、私は人類の、言わばお母さんたちのために、困難なミッションを全うすべく必死に頑張っているのよ。それを逃げてるだなんて冗談じゃない。お母さんこそ、いい加減に子離れしてよ」

「子離れって。あなた、よくも親にそんな」

「人間は、魂の健全なる成長のために、血縁的家族から霊的家族へと移行せねばならない。『ニルヴァーナ・スートラ』第Ⅲ章にも、光の家族、地の家族問題で明記されている。メサィアだって」

「メサィアって何です! 一体何? あなたまさか宗教なんかに」

「怒るよ。お母さんは霊的に未熟だから真理が見えないの。自分に理解不可能なレベルの話になると、すぐ宗教に結びつけて騒ぎ出してしまう。メサィアは国際的心理学者で、ニルヴァーナは宗教なんかじゃない。宗教は魂の成長を阻害するDFの陰謀だわ。時間ないから切るよ」

「待ちなさい。ニルヴァーナって何です!」

 ヒステリックな声が追ってきたが、構わずに受話器を置く。母親とはなんと次元の低い生き物であることか。エゴの権化。究極の現世的存在。それにしても、ニルヴァーナを宗教団体呼ばわりするとは勘違いも甚だしい。

 追うように鳴った電話のベルは無視した。

 ニルヴァーナ、ニルヴァーナ、ニルヴァーナ、マントラを唱え呼吸を整えれば、19時7分。完全に遅刻だ。

 華奢なミュールに足を突っ込み、台所でパソコンに向かっている沙紀を振り返る。

「後はお願いね。ニルヴァーナ!」

「ニルヴァーナ! 行ってらっしゃい」

 沙紀の声に送られてアパートのボロ階段を駆け下りる。チェーンを外し自転車に飛び乗るや、朝とは反対方向に駒沢通りを走った。

 

* * *

 

「何、それでミカ、その女に電話したの?」

「そう。窪田のことで話があるって言ったら、焦ってたわよ」

「あんたもやるわねぇ。いちいち男のケータイ、チェック入れたり。相手の女、呼び出したり。で、どんな女だった?」

「さあ、OLやってるって言ってたけど。でもあの女も言ってくれるわよねぇ。あたしそんな暇ないです、あんなつまんない男、要らないから勝手にやってくださいって、こうなのよぉ。悔しいっ」

「それも…かなりムカつくわねぇ」

 20時3分―

クラブC21のシッティング・ルームでは、指名を待つ十人程のホステスが他愛ないお喋りに花を咲かせていた。先程から南はベテランホステス、アキナと新入りのミカとの間で囁かれる恋人の浮気話に耳を欹てていた。どうやらミカは自称フリーター男を食わせているらしい。

コンタクト・セラピー・クリニックに誘う絶好のチャンスである。稼いだ金をそんな男に費やすより人類救済のミッションに役立てる方が、彼女自身の霊的成長を考えてもどれほど有意義であることか。二人の会話がふっと途切れた隙に、間髪を置かず口を挟んだ。

「残念だけど彼、また同じことをやるわ」

 ギョッとしたように二人同時に顔を上げる。

「来週きっとまた、彼は別の女に声を掛ける。来月も来年も再来年も、彼は女をナンパして、定職に付くこともなく、蛭のようにあなたに吸いついてくる。問題は、彼の浮気じゃないと思う。どうしてあなたがそういう男を選んだのかってことじゃないかしら」

「何なのよ! あんたにそんなこと言われる筋合ないわよ」

キッとミカはこちらを睨み付けてくる。

「ごめんなさい、私ったらつい。職業病ね」と、わざと慌てたふうを装ってコンタクトの名刺をミカの指先に押し付けた。

「ヒプノシス・セラピスト…」

南は頷き、「私は催眠療法を専門に扱うセラピストなの。仕事柄、いつも女性の悩みに耳を傾けているせいか、あなたのように優れた女性が自分を見失っているのを見ると、つい黙っていられなくて」

「優れた女性って」

ミカは満更でもなさげに肩を竦めた。

「心理学では、私たちが抱える問題の根本的原因は過去の、とりわけ幼児期の辛い体験に関連し、深層心理に潜んでいると言われているの。それを催眠療法で探り当てるのが、私の仕事。原因を探って過去を遡るとき、幼児期を超えて前世のトラウマの記憶にまで辿り着くことさえある。そうして本当の原因がわかれば、誰もが急激に癒されてゆく。セラピストの勘なんだけど、あなたと彼の問題は前世にまで起因しているような気がするの」

「前世って」

ミカの目が、アキナは肘で小突いたけれど、好奇心で輝くのを南は見逃さなかった。もう一押しだ。

 そのとき曇りガラスの向こうに黒いタキシードが見えた。マネージャーが音も立てずシッティング・ルームに入って来る。

「ミチルさん、7番テーブル指名入りました。それからミカちゃんもヘルプ付いて」と腰を屈めホステスの耳元で囁いてから鋭い目付きで南を睨んだ。

「ミナミさん、9番テーブルのヘルプお願いします」

 低く抑えた声だったが、暗に勝手なことをするなという凄みが利いていた。ともかくもにっこりと頷き、南も立ち上がった。

「マネージャーには気をつけた方がいいわよ。あの男、怒らせるとヤバイって話」アキナが古株の貫禄を漂わせ、耳打ちしてくる。

「ヤバイって?」

「さあ、性格破綻者ってとこかしらね。あいつに睨まれて嫌がらせされて辞めてった女の子たち、何人も見てきたわ。とにかく、睨まれたら辞めるが得策よ」

真っ赤な唇から煙草の煙を吐き出すアキナに頷くと、南はフロアに出た。

 BGMも照明も抑えたフロアは、都会の隠れ家をコンセプトにデザインされている。南は背筋を伸ばし、ゆったりと並ぶボックスシートの間を擦り抜け9番テーブルについた。

一見してサラリーマンと判る3人は誰も初めて見る顔で、既に女のコが二人ついている。中間管理職といった風貌の男と若手が二人。一人はひょろりとした鼠男ふうで、もう一人はチワワ顔。酔っているふうもなく、和やかに女のコたちと談笑している。南は愛想良く挨拶を交わすと手際良く水割りを作り直し、適当に〈泡話〉に相槌を打った。

「そう言えば、この間のトルコ地震は酷かったですよね。なんでも死者が4万人を超えたって話で」

 何気なく話す鼠男の声が心臓に突き刺さった。

「地震って?」

「えー、知らないの! この間トルコで大地震あったじゃないか!」

 鼠男に首を振って応えながらも、全身に震えが走る。

「8月17日だったな。最近の若い子は、新聞も読まないのかね?」

「忙しくて」

南は、呆れたようにこちらを見遣る管理職に答えたが、実際は時間の問題以上に、DFの息の掛かった既成メディアに洗脳されないように、ニュースの類には敢えて触れないようにしているのだった。

「すごかったのよぉ。もうビルなんかぺちゃんこに潰れちゃって。瓦礫の下から担ぎ出される血だらけの人見てたら、鳥肌立っちゃった」と白いスーツを着た女のコがぶるぶる身震いしてみせる。

「ほんとよねぇ。あれが東京でって思ったら、生きた心地しなかったもんねぇ」と黒いスリップドレスのホステスも顔を潜め、

「日本からも救助チーム結構行きましたよね。実際、他人事じゃないもんなぁ」とチワワ男。

「私は神戸に親戚がいるんだがね」

 身を乗り出した管理職の声が遠ざかってゆく。

ドクドクッ、ドクドクッ、心臓がパンクしそうだった。

そう、今こうしている間にも刻々と地球は破滅に向かっているのだ。DFの陰謀は確実に進み…

「どうした、君。顔色悪いね」

 管理職に顔を覗き込まれたが、がちがち歯が鳴って止まらなかった。人類破滅の予兆は、既に始まっているのだ。恐怖の余り立ち上がっていた。

「DFの…陰謀だわ。オラクル2007よ!」

「はいっ?」

いっせいに5人がぽかんと南を見上げる。

「西暦2007年に人類は滅亡の危機に晒される。それはもう、始まっているのよ。今この瞬間にも地球は破滅へと向かいつつあるの!」

 さっと冷たい沈黙が降りた。

自分を見上げる5人とも、恐怖に顔を引き攣らせている。南の掌は汗ばみ、喉は焼けるようだった。震える手でコップを掴んだとき、誰かがひくりと泣き出した。

「ツーオーオーセブン、ですか。いやぁ、参ったなぁ。電話番号かと思っちゃいましたよ。ノストラダムスの大予言ってのはあったけど、そうか、西暦2007年は良かったなぁ」プッとチワワ男が吹き出した。

 カッと頭に血が昇る。南はチワワを睨み付けていた。

「あなたは何もご存知ないから、呑気に笑っていられるんです! DFの陰謀は今も」

「ディーエフ? カード会社か何かですか?」

「ダーク・フォース、世界を陰で操る国際陰謀組織です。CIAを支配しているのも、ビル・ゲイツやハリウッドやウォール街を牛耳っているのも、この闇のエージェントなんです! このままじゃ人類は破滅して」

「うっわあ、今度は国際陰謀組織ですか! フリーソーメンとかメーソンとか、無知丸出しの陰謀説って多いけど、あんなの信じるヤツ」

「無知なのは、あなたよ!」

拳でテーブルを力任せに叩いていた。琥珀色の液体が飛沫を上げ、グラスが派手な音を立てて吹っ飛んだ。女のコたちが悲鳴を上げたけど、南はチワワの襟首をぐいっと掴む。

「あなたはもうDFに洗脳されているから、真実が見えてこないだけです! だけどあなたがお気楽に飲んでいる、今まさにこの瞬間にも」

「お客さまに何をするんだ!」

マネージャーが吹っ飛んできた。

「すみません。お召し物の方は」と平謝りに詫びていたが、ふいに南を睨むと諭すように言う。

「だから言ったでしょうが。病み上がりの体で仕事は無理だから、今日は家で休養するように、と」

「そ…うなんです。彼女、盲腸の手術したばかりで。まだ麻酔とか残ってるのよね?」と白いスーツが取ってつけたように微笑んだ。

「熱もまだ下がらないのよね?」とスリップドレスも、ボーイから受け取ったおしぼりでテーブルを拭きながら話を合わせる。

「すみません」

仕方なく南も頭を下げた。

 半ば引き摺り出されるようにフロアを出て、そのままマネージャー室へと連れて行かれた。マネージャーは音を立ててドアを閉めるや椅子にふんぞり返り腕組をして、舐め回すよう、南の全身にねっとりとした視線を絡ませてくる。

南は立ったまま身を固くしていた。霊的レベルが低すぎて真理の見えない連中相手に、DFの真相や神聖なる予言を口走ってしまった自分に、猛烈に腹が立っていた。

「君さぁ、宗教でも、やってんの?」

「まさか! 私、宗教なんて絶対に」

「とにかく、こういうことされると困るんですよね。君も生活かかってるんだろうから、ぼくとしても手荒なことはしたくないわけ。だけど今度こんなことをしでかしたら」さっと人差し指で喉元を切る真似をする。

「それからウチの女のコ相手にセールスも、止めてもらいます」 

「セールスって。私はただセラピストとして、悩んでる女性を見ると放っておけないだけで」

「前にも確か同じお願い、しましたよね? 今度やったら」と、再び人差し指で自分の喉元を切る仕草をしてから鼻を鳴らした。

 今ここを止めるわけにはいかない。生活費、ニルヴァーナ基金への募金、セレモニー費や研修費用。とにかく、お金が要るのだ。

 煙草を咥えた彼の口元にさっとライターを差し出した。若作りな男の年齢が滲み出た無骨な指先を眺め、南はアキナの忠告を思い出していた。改めてマネージャーには気を付けようと思う。

この男は、DFの手先かもしれない。

 



この後20章まで続く。

 




Copyright © Ako Mak 2018

『インスタント・ニルヴァーナ2』 2018年4月23日 発行

著者 マックあつこ 

本書の一部あるいは全部を、著作権者の承認を得ずに無断で複写、複製することは禁じられています。

 

 

© Ako Mak 2018

All copyright is reserved by Ako Mak, マックあつこ