『ユーカリの木陰で里の行』


ブログ『ユーカリの木陰で里の行』

本や執筆、チベット密教やスピリチュアルな話、家族や愛犬、メルボルンの暮らしなんかをゆぅらりと綴っています

 

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あの日を偲んで

2021年3月18日の日記から


3月11日は、

2011年には東日本大震災、

去年はコロナ・パンデミックスの世界宣言がされた、悲しい記念日だ。

私たち家族にとっては夫の命日、一周忌でもあった。

 

命日前日の10日―

アメリカの仏教雑誌『Mandala』から

夫のObituary死亡記事を掲載した雑誌が出版されたと

電子マガジンと一緒にメールが届いた。

 

出版された雑誌の方が届くのは、

オーストラリア政府がコロナ禍で相変わらず

国際郵便の規制を続けているため、先のことになりそうだけど。

 

そうなの、この国では

国境規制が厳しくて(中でもビクトリア州は特に厳重…)、

今もEMSとかは不通で、すご~く不便です(涙)。

ワクチンが普及するまではこの状況、変わらないんだろうなぁ…。

 

話を『MANDALA』に戻して―

夫が亡くなったとき、FPMT

Foundation for the Preservation of the Mahayana Tradition

大乗仏教保存協会に連絡すれば祈祷してもらえると

昔からの友人、M僧に教えてもらったのだった。

そこからダライラマ法王事務所にも連絡がいって

そちらからもご祈祷をしてもらえる、と。

早速FPMTのHPから祈祷をお願いした。

 

その2か月後くらいにN.Y.の『MANDALA』編集部から

彼の写真と死亡記事を書いて送れば掲載してくれると連絡があった。

 

突然の話に驚いてしまったけれど、

『MANDALA』は夫も昔、読んでいた雑誌である。

そこに載せてもらえるだなんて!

思ってもいなかった申し出だった。

祈祷をお願いしたとき、夫の供養になればと

多少お布施をしたからだろうか。

とにかく夫も喜んでくれるだろう、と

早速、記事を書いて夫の写真を送ったのだった。

 

その後、今度はFPMTからお悔やみの手紙と

高僧や僧侶たちが祈祷してくれたマニピルが送られてきた。

夫の仏前にお供えして、

マニピルは心が疲れたときなんかに頂いてきた。

あのころ、ともすれば沈んでしまう家族の心を

励ましてもらったのだった。

 

とはいえもう十ヶ月近くも前の話で、

その後もコロナ騒動や、

家電が原因で起きた床上浸水や何やらで慌ただしかったので、

『MANDALA』のことはすっかり忘れていた。

 

それが、夫の命日前日に送られてきたのでした!

 

なんでも今回の雑誌はコロナ禍で発行が遅れ、

しかもこれが最後の紙雑誌での出版になるんだそうだ。

これからも電子出版では継続されるそうだけど。

 

何て言うか―

紙媒体で出版される最後の『MANDALA』に

掲載してもらえた、ご縁。

それが彼の命日前日に届いたというタイミング。

私にとってはシンクロニシティ、

まさに吉兆だった。

 

天から、彼は大丈夫だからと

またお知らせをもらったような気がした。

明日の命日を前に

夫に素敵なプレゼントができたような…。

 

『MANDALA』のカラーページに掲載された

夫の写真と死亡記事を印字して、仏前にお供えした。

キャンドルに火を灯し、

記事を読み、

Tara菩薩のマントラを唱え、炎を眺めていた。

 

すると、命日に彼の記事も載った『MANDALA』を

贈ることができて良かったと思っていたのが、

これこそ本人から家族へのプレゼントのような気がしてくるのだった。

 

地元のチベット仏教センターでささやかながら法要もした。

コロナ禍でセンターも未だ閉まったままなので、家族だけで。

伝えてもいなかったのに、

法要の後にチベット僧のゲシェ、L先生が現れて元気づけてくれた。

 

夫が亡くなったあの日からもう1年が経ったわけだ。

 

あっという間だったような気もするし、

もう何年も昔のことのような気もする。

 

今日は、去年12月のブログ「あのころの家族模様」に書いた

翌日2019年11月13日のことを書き留めておこうと思う。

 

 

その日は娘の大学受験の最終日だった。

娘を送り、いつものように息子を中学校へ送った後、

夫に付き添って病院に行った。

 

二日前にヒヒから退院してきた

夫の背中と腰の痛みは相変わらず酷かったのだけど、

癌治療の主治医との予約だった。

最後の望みの綱だった放射性核種内用療法が中止になってから

初めての診察だったので、

どうしても私も立ち会いたいと思っていた。

 

だけど結局、私は夫の主治医には会えなかった。

その朝、緊急手術が入ったそうで夫の予約は1時間遅くなり、

病院に着いてからも更に            1時間ほど遅くなり…。

後ろ髪を引かれつつも夫を待合室に残して、

私だけ先に家に戻らなくてはならなくなった。

前日に頼んだ介護用レンタルベッドが

配送される時間になってしまったから。

 

電話が鳴ったのは、自宅に着いてから間もなくだった。

配送会社からかと思ったら、主治医からだった。

挨拶もそこそこに彼女は言った。

 

“Your husband is dying.

 

“dying”という英単語がハンマーとなって、

突然、後頭部を殴られたような気がした。

頭の中が真っ白になった。

いや、真っ暗になったのかもしれない。

 

夫が死にかけている―

 

凍り付いてしまった私に、

医師は英語が理解できなかったと思ったのか、

さっき以上にゆっくり、はっきりと、もう一度繰り返した。

 

“Your husband is dying.”

それで夫はそのまま入院したのだ、と。

 

夫は一昨日退院してきたばかりの病院に、再入院したわけだ。

混乱しつつも、

夫に残された時間は後どれくらいあるのか、と尋ねた。

 

「数週間」と、医師は応えた。

「2週間か、5週間か…。

それはわからないけれども、いずれにしても

月単位では考えられない状態です。

残念だけど、

クリスマスまでは生きられないと思うわ」、と。

 

目の前で、世界が反転したようだった。

 

夫もそのことを知っているのか、と尋ねると、

私に話したのと同じことを本人にも伝えた、という。

 

それから何を話したのか、詳しいことは思い出せない。

とにかく、子どもたちが学校から戻ってきたら

皆で病院に行くことを伝え、電話を切った。

 

介護ベッドが届いたのはそれから間もなくだった。

おとなしそうな青年が一人でベッドを運んでくれた。

ベッドの移動の仕方や、高さや傾きを調節する

リモコンの使い方を説明する青年の声を聞きながら、

さっき電話で話したばかりの主治医の言葉を思い出していた。

 

Your husband is dying.

 

とてつもなく虚しかった。

こんなベッドを置いてもらっても、もうここで眠る人はいない。

操作の仕方を教えてもらっても、リモコンを握る人はいないのに…。

 

配送業者が帰った後、夫が使うはずだったそのベッドに

暫くぼんやりと腰を下ろしていた。

 

子どもたちに、なんと伝えればいいのだろうか…?

 

もうすぐ娘を迎えに行く時間だった。

大学受験の最終日。

受験のストレスから解放されるこの日を

娘がどんなに楽しみにしていたか…。

きっとクラッカーでも鳴らしたい心境だろうに。

 

頑張ったお祝いに、

一緒にランチに行く約束をしていたのだった。

夜は家族4人でお祝いをしようね、と。

ディナーに出かけるのはダディンには難しいだろうから、

娘の好きなレストランからテイクアウェイでもしよう、と。

それが…

 

せめて、ランチが終わるまでは

お祝いムードでいさせてあげようと心に決めた。

それから…

 

息子の方は遠足だった。

遠足の興奮と疲労を引き摺って戻ってくるのだろう

中学1年生の息子には、何て…?

 

二人とも父親が癌であることは、

化学療法が始まったころから知っていた。

副作用で隠しようがなくなるだろうから

子どもたちにもきちんと伝えようと言ったのは本人だった。

 

それから1年後の2018年に、ダディンは

自分の命が余命数年であることを子どもたちにも伝えた。

一連の化学療法の効果が崩れ始めたときに、

本人が子どもたちに伝えたのだった。

 

今思えば、あのとき医者だった夫は

それが何を意味するのか、正確に理解していたのだろう。

医学編集者という仕事柄、

最新医療の研究を記した論文のリサーチはお手の物だったから。

 

それでも、彼は望みを捨てなかったのだ。

それからも主治医の勧める治療を続けながら、

あくまでも普段の日常生活を続けようとしていたのだった。

たぶん自分以上に、家族のため

子どもたちのために。

 

 

今度は私が子どもたちに主治医の診断を伝えなければならなかった。

ダディンはもうクリスマスまでは生きられないのよ、と。

 

実際、娘も、息子も、泣かなかった。

ショックを受けていたのは一目瞭然だったけど、

取り乱すこともなかった。

たぶん突然の状況に圧倒されてしまって、

なす術もなかったのだろう。

 

実際、夫が今から数週間と生きられないという事態に対して

私たちにできることはあまりなかった。

クリスマスまでもうあまり時間もなかった。

今更泣いても騒ぎ立てても…。

 

ならば、できるだけ今まで通り、

家族の生活の続きを生きながら、夫を送り出したかった。

それが一番自然な気がしたし、それしかできそうになかった。

 

死は、生の延長だ。

願わくば、彼が満足して逝けるように。

大往生を遂げられるように。

 

3人で夫の入院する病院にお見舞いに行った。

今月に入ってからもう何度も訪ねた病院である。

前回は二人部屋だったけど、今回は一人だった。

 

夫は、今朝よりもずっと顔色も良くなっていた。

朝この病院に来たときは背中や腰の痛みが酷くて

椅子に座ってもいられないほどだったのが、

ベッドに横になって、にこにこと普通に会話をしていた。

とても数週間で死んでしまうような人には見えなかった。

 

夫も、子どもたちも、感情的になることは全くなかった。

彼は娘にその日の物理学の試験のことを尋ね、

息子は遠足のことを話した。

 

それから3人は、

息子が家から持ってきたボードゲームを始めた。

病院という日常からは特異な環境で

あたかも何事もなかったかのように「ふつーに」ゲームに興じる

親子の姿が、今も瞼に浮かんでくる。

 

あの日、娘の受験終了をお祝いするディナーはしたのだろうか?

 

今となっては思い出せないけれど、

それでもやはりあの日のことは、忘れられない。

 

写真は、夫の命日を前に友達が贈ってくれた向日葵。

大きな花束だったので2か所に活けた。

向日葵の花は陽の光に溢れ、笑顔をくれる。

ともすれば感情的になりがちな心を朗らかにしてくれたのでした。

 





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